2009年10月15日木曜日

51~了

 


51

グラッパ酒を啜りにぼくが飲み屋の片隅に坐るたびに
そこには男色家か、悲鳴をあげる幼児たちか
失業者か、外をとおる美少女かがいるのは
大したことだし、誰もがぼくのタバコの煙を
中断させてしまう。「お若いの、そうなんだ、
おれはルチェントで働いてるんだから、ほんとのことだぜ」

―――パヴェーゼ詩は「悲しい酒」Ⅰの①
もう外は真っ暗だ。まだ冬至でもないのに。いや、もう大寒だ。暖冬のせいか、季節感が狂った。もう出かけなくては。さよなら


プヤ・ライモンディ、アンデスの四千メートルを超す高地に咲く世界最大の高山植物、百年に一度咲くその白い花のかおりは果たして如何なるものか、実地に嗅いでみたかった。一万個の花のかおりに、蜜も吸わずに卒倒するドジなハチドリの一羽になりたかったおれ。
詩は「悲しい酒」Ⅰの②―――

だがその声は、四十代‐だろうか‐の老人の切ない
その声は、夜中に寒さの中ぼくと握手して
家まで送ってくれた男の、ぽんこつ
コルネットのその調子は、
ぼくは死んでも忘れない。


彼は酒の話はしなかったし、ぼくと話したのは
ぼくが勉学してパイプを燻らしていたからだ。
「それにパイプを吸う男が」と、震えながら彼が叫んだ「偽者である筈がない!」ぼくは頷いた。

―――詩は「悲しい酒」Ⅰの③
惜しいことをした。ぼくはパイプタバコを止めてもう大分になる。メアシャムもシャコムもどこかに片付けてしまった。八十まで生きたらイタリアの潮風吹く片田舎でパイプを燻らしているかも知れないが……


やや遅ればせながら謹賀新年。目下アルファポリスで白浜碧『ゴーストtaxiレヴォルーション』を公開中です。今年も支援宜しくお願いします。掲示板にも書込んで頂けると嬉しいです。

〈循環〉の象徴としての木の葉文浅鉢形土器は面白かった。確かにマリノフスキーの言うクラ交換を実地に検証した最古の例であろう……に止まらず葬送儀礼〈再生〉への願いまで言及している……数多の縄文本の中でも出色の一冊。小杉康著『縄文のマツリと暮らし』―――

彼の手元を離れた二つの赤い器。
そして残った一つの赤い器。
それを携え、今度は彼が別れを告げようとしている。
先刻、掲げられた器を仰ぎ見たときには、文様は逆光でくすんで見えた。
いまは、遺体の上に伏せ置かれた赤い器の裏側の、二重に巡る文様の帯がひときわ目立っている。
取り囲む人たちは、その文様の意味を知っている。
循環。
その器を副葬することの意味を知っている。
回帰。
たぐいまれな彼の統率力、あるいは天界や山野草木の向こう側と交信する力だったか。
その彼がやがて生まれ変わり、このムラに再び現れることを、人たちは知っている。
再生。
赤い器が伏せ置かれた彼の横たわる遺体の上に、土が一握り、また一握りかけられる。
一握り、また一握り……


遅れて届いた畏友からの賀状(一部抜粋)―――

それにもかかわらず、この作品は、ある意味では彼のどの作品にもまして根源的な要素に触れているとぼくは考える。ここでまたノサック自身のことばを借りると、「肉親を失ったように」その死を悲しんだイタリアの作家パヴェーゼの、神々や英雄たちの口を通して陰鬱な冥想を語らせたレオパルディ風の対話集『レウコとの対話』について、彼はあらまし次のようにいう、一見ここでパヴェーゼが、太古の神話に回帰しながら、それを当節の流行のように、今日的問題を装う衣裳として利用していると見えるかもしれない、だがそれはちがう、むしろ反対に、彼は休みなく前へ前へ進み、螺旋状の行程を行きつくし、行きつくしたはてにふたたび出発点に到達した、「だが、これが決定的なことだが、彼はいわば背面から出発点にたどりついたので、さまざまな事物や存在の人間に向けられた面が名を持つ以前の、その名によって神話や歴史が生まれる以前の、それらのあるがままの不変の相を、咄嗟に見てとってしまったのだ、すなわち、いかなる扮装もふるい捨てた、裸形の、素朴な実在を。」
『レウコとの対話』を一読したかぎりでは、この評言は、前に引用したシュティフターについてのそれ以上に、評者自身にふさわしいように思われる。・・・・・・
H.E.ノサック 川村二郎訳『影の法廷 ドロテーア』(白水社)・解説(川村ニ郎)より

「この作品」というのは、この本に収められた「影の法廷」(1959年)のことです。
ところで小生、「影の法廷」もまだ読んでいないし、『レウコとの対話』も読んでいないので、この評言が正しいのかどうかわからないのです。
一読、「ムズカシイことを言っているなあ」と思いますが、「裸形の、素朴な実在」というのは―ノサックが実際にドイツ語でどの単語を使っているかはわかりませんが―おそらくExistenz というやつでしょう。
ノサックの作品は大学時代に未訳の長篇を一冊読んだだけで(Nach dem letzten Aufstand)、あとの作品は読まずに済ませてきましたが、最近ふと
気まぐれを起して何冊か買ってみました。集英社の「世界の文学」は一巻まるごと彼にさいています(パヴェーゼと同じ扱い)。
もう30年も前に亡くなった作家ですし、日本ではほとんど読者がいないでしょう。本国のドイツでも(ネットで検索してみたら)絶版書が多いみたいです。
ひょっとしたらドイツ語の本も注文するかもしれませんが、実際に読むかどうかはまた別のことになるでしょう。
それでは今年もよろしくお願いします。(このメールは固有名詞ぬきで書いています。一応私信のつもりですが、「掲示板」にのせてもらってもかまわないです。)

ありがと。ふうむ、知的環境というのか、そいつはたつきのための仕事柄、ぼくにとってきみとの通信がほぼ唯一のものなのだよ。ゆえにありがたい。むろん、きみのことを心配もしていたが…… 早速、貴信の一部を愛洲昶『海の風と雲と』掲示板に載させて貰ったよ。気楽に何でも通信しあおうよ、それがぼくの喜びなのだが、きみの息抜きにもなれば幸い。以下は件の掲示板――

どうもありがとう。貴兄の指摘は長年の懸案を新たに思い起させてくれました。
ノサックはいつか再読しなければ、それにもまして『レウコとの対話』はぼくなりの試訳完成を急がねば……
ps・これを見たら、白浜碧『ゴーストtaxiレヴォルーション』支援のほうも忘れずに宜しくね。ぼくは貴兄のマイペース振りが大好きだよ。ではまた!


おれは仕事帰りの少女たちと出会った、ずっとあけすけで、もっと健康で、
両脚はむきだしの少女たち ― 何ヵ月も満足に喰ってない彼女らと ―
そしておれが結婚したのはひとえに彼女らの新鮮さに
酔いしれたからさ ― 老年みたいな愛ってやつだ。

―――詩は「悲しい酒」Ⅰの④
外はどんよりと曇って薄寒い。もう出かけなくては…… さよなら


おれは最も筋骨たくましい、いちばん生意気な女と結婚した
もういちど人生を味わって、机の後ろ、事務所の中、
よそ者どもの前でもう死ななくてすむようにだ。

―――詩は「悲しい酒」Ⅰの⑤
ただいま。外は晴れてきた。一眠りしてまた出かけよう。おやすみ


けどネッラもまたおれにはよそ者だったし、とある航空士見習野郎が
おれの女房を盗み見てちょっかいを出した。
いまじゃあの卑怯者は ― あの哀れな若造は ―
大空で転覆して死んじまった ― いや、卑怯者はこのおれだ。

―――詩は「悲しい酒」Ⅰの⑥
久し振りに手巻きのドラムを巻いて燻らす。おれにはこのタバコがあればよい、ほかに面倒臭いものは何も要らない。クール&ドライなこのおれがウェット&ラメンティンなエリサと物の見方がまるで違うのは理の当然だが、風景までも違って見えるものか、黒川段丘のベンチでドラムをふかしながら、おれは首を捻ったものだった。


おれのネッラは赤ん坊に専念し ― おれの息子か分ったものじゃない ―
専業主婦そのものでおれは一人のよそ者だ
彼女を満足させられないし、おれはあえて何も言わない。
そしてネッラもまた話さずに、おれを眺めるばかりだ。

―――詩は「悲しい酒」Ⅰの⑦
虎徹のロックもいいが、グラッパの衝撃は懐かしい。歩き疲れて入ったローマのバルでカウンターの向う端の見ず知らずの髭男が奢ってくれたのがグラッパだった。その透明な液体をぐいと飲み干してカッと熱くなったおれは思わずトスカーナ葉巻を一本その髭男に進呈したことだった。エーコに似ていたが、たぶん別人だろう。


浴室の暈し硝子越しに垣間見た白い裸身、おれが恋焦がれていた白い裸身のシルエット、だが次の瞬間おれは慄然とした、おれがそのとき激しく欲情していたのは、その傍らの夫、長らくおれが憎んできた筈のあの褐色の裸身のシルエットに対してであった…… アケの日の寝覚め際の悪夢としてはこれは上出来の部類か。


「お月さん、いつ見ても綺麗だね、もう満月じゃないか」
「あんたは、だあれ?」
「おれかい? おれはエリサのだちの碧だよ。あんたの美しさに及ぶものはこの地上には無い」
「ありがと」
詩は「悲しい酒」Ⅰの⑧―――

そして、呆れたことに、あの男はそう物語るうちに泣いていた、
酔っ払いが泣くみたいに、全身をわななかせて、
そしてぼくの背中に倒れかかって言った「おれたちの間では
つねに敬意を」そしてぼくは、寒さに震えながら、
何とか立去ろうと、彼と握手しようとするのだった。


この掲示板も間もなく閉じられてしまうのだろう。折角の畏友の手紙ももう目に触れられることはない。エリサの掲示板はもう見れないのだろうか? エリサとぼく昶の友だちは白浜碧の掲示板に書込んでくれるとよいのだけれど……


グラッパ酒のグラスを啜るのは喜びだ、けれどもう一つの喜びは
不能の老人の吐露に耳を傾けることだ
前線から生きて還ってきてきみに許しを乞うのだ、彼は。
一体どんな満足を人生で得たのか、このおれが?
本気で話してるんだぜ、おれはルチェントで働いているんだ。
一体どんな満足を人生で得たのか、このおれが?

―――詩は「悲しい酒」Ⅰの⑨
零時過ぎには戻らねばならないから、新たな詩と取り組む時間がない。帰って風呂を浴びたら、寝床の中で白石一郎『怒涛のごとく』を再読するとしようか。

52

「お月さん、どうしたものだろう?」
「その声は碧?」
「うん、おれだけど、おれの息子は三十にもなってまだ働かずに家で勉強しているんだ」
「フーテンやヒモになるよかよいけど、困ったものだね」
「全然稼がないくせして、おれが明け方まで寝床で小説を読んでいたら、文句垂れるんだ」
「あんたも極端だね、それで朝飯喰ったら昼過ぎまで寝るんだろ?」
「ああ、夕方まで寝てしまう日もあるな」
「あんたの息子が文句垂れるのにも一理あるんじゃない? 夜中過ぎに帰ってガタビシ風呂入って朝まで本読んで昼寝ている親父なんて!」
「どうしようと稼ぎのない息子なんかに文句言われる筋合いはないよ、このおれは!」
「だったら、追い出せばいいじゃん」
「それが出ていかねえんだ、奨学金返済があるから、稼いでも無駄だとか、変な理屈を捏ねやがってな」
「似たもの父子だね」
「ほとほと困ったよ、理系で自慢の息子だったのによ」
今日こそ満月、きみはほんとに美しい。天国には往かずとも、月よ、おれは地獄に落ちなかったら、ほんとにきみの懐に抱かれたい!


立眩み、疲労時の舌の縺れ……おれも長くないかも知れない。深酒チェーンスモーキン夜更し……こりゃ何時ポックリ逝っても可笑しくないなあ。早く叩き出したほうが本人のためだけど、不甲斐ない長男でもおれがポックリ逝った時くらいは家にいれば何かの足しになるかも知れない、かみさんのためには。本人が勉学を続けたいのならいくらでも好きなだけ続けさせてやれという気も心の何処かにはある。長女、次男はとっくに大学出て自立していることだし。


いったいどうしてあの晩牧場のあそこにいたのか知りたいものだ。
たぶん陽射しにやられてぼくはへたりこんでしまったのだろう、
そして手負いのインディアンのまねをしていたのだろう。あのころ少年は
独り丘丘を越えてバイソンを捜し求め
色塗りの矢を放ち、長槍を投げていた。
あの晩ぼくは全身隈なく戦闘色を塗っていた。

―――詩は「ぼくの中にいた少年」①
今朝は寒いけれどもいい天気だった。風もなく白い雲たちが青空にぽっかりぽっかり浮んでいる。黒川段丘で不意の立眩みに襲われさえしなかったら、淺川まで足を伸ばしていたところだ。先が短いのなら、仕事のペースを上げなくては。
方針は定まっている。新たに全篇を訳し落したら、パヴェーゼの意図に基づいて、各篇を配置し直す。
構成。
詩集にとって大事なことだ、殊にパヴェーゼの場合には。『生きるという仕事』『書簡集』、各詩集、各版の注釈、詩論などを参照しながら、決定稿に近づける。
本格的な推敲、また推敲。
決定稿。
解説またはパヴェーゼ論。


いまは、大気は涼しく、ムラサキウマゴヤシも生き生きと
ビロードみたいに深ぶかと、赤灰色の花花が
撒き散らされて雲たちと空とは
茎たちの真っ只中で燃えあがっていた。別荘では褒め言葉を
耳にするばかりの仰向けの少年は、あの空を見つめていた。
だけど日没は茫然自失させる。目を半ば閉じて牧草の抱擁を
楽しむほうがずっとよかった。水の流れみたいに包んでくれた。

―――詩は「ぼくの中にいた少年」②
詩を訳していると気分も落着いてくる。立眩みは低血圧の一種だろうが、高血圧の中の低気圧、じゃない起立性低血圧、眩暈、飛蚊症と忙しくて困ったものだ。晴れの日でも屋内で仕事するには悪くない条件か。早や夕暮れ、紫馬肥しの花色に染まった雲たち。梅も咲きだしていたっけ。その香りはまだ心もとなかったけど。


今宵も満月、否、今宵こそは満満月。真円の凛とした輪郭に溢れんばかりのその美しさは、前後一日、二日のそれとは隔絶し、漫然とただ仰ぎ見るだけの者の心を打ちひしがずには措かない。洋の古今東西を問わず、美しい恋人を誇らしく思う男の気持はみな同じだ。吾が永遠の恋人、吾が満月のなんと美しいことか! おれはつくづく誇らしい。
詩は「ぼくの中にいた少年」③―――

突然、陽射しで嗄れた声がぼくに降りかかった。
わが家の敵、牧場主だった、
ぼくが身を沈めた水溜りの様子を見ようと立止まり
ぼくが別荘のあの坊主だと見てとり、怒って言った
よくもまあそれだけ服を台無しにできるものだ、顔を洗え、と。
ぼくはぐっしょり濡れて牧草から跳びあがった。そして両手を挙げたまま、
あのぼやけた顔を震えながら凝視した。


ああ、男の胸に矢を射こむ好機!
たとえ少年にその勇気がなかったにせよ、ぼくとしたら思いたい
それはあの男がとった厳しい命令的態度のせいだった、と。
ぼくは今日でも思いたい、平気でしっかりと振舞った、と
あの晩ぼくは黙って立去り、数本の矢を握りしめながら
ぶつぶつ言っては、瀕死の勇者の言葉を叫んでいたのだ、と。

―――詩は「ぼくの中にいた少年」④
今日も上天気。たかが立眩み、されど立眩み。遅めに起きて、ゆっくり風呂に浸かって、タバコをふかしながら真っ直ぐに仕事場に来た。デートなんて思いもよらないね。


たぶんそれは、ぼくを叩くやも知れぬ者の重い眼差しを前に
怯んだせいだろう。あるいはむしろ、赤帽の前を
笑いながら通り過ぎるときみたいな羞恥だったのかもしれない。
けれどもぼくは恐れる、それが恐怖ではなかったかと。逃げろ、ぼくは逃げた。
そして、その夜、枕への涙と噛みつきが
ぼくの口の中に血の味を残したのだった。

―――詩は「ぼくの中にいた少年」⑤
普段は何ともないドラムの手巻きタバコの味がいまのぼくにはきつい。ハイライトを燻らす。煙と共に過ぎ去ってゆくぼくの人生よ、さよなら


あの男は死んだ。ムラサキウマゴヤシは根こぎされ、馬鍬で耕された
だけどぼくは目の前にいまも牧場をはっきりと見る
そして、奇妙なことに、ぼくは歩いてはおのれに話して聞かせる、平気で
陽に焼けた背の高い男があの晩話したみたいに。

―――詩は「ぼくの中にいた少年」⑥
ぼくの健康状態は加速度的に悪化している。煙の粒子となって飛び去ってゆくぼくの生命の欠片たち、さよなら

53


彼のバンドを聞かせにぼくを連れていった。一角に坐ると
彼はクラリネットを咥える。地獄の大音響が始まる。

―――詩は「紙を吸う人びと」①
ついカルヴィーノによる注釈を見てしまうと、とても漫然と訳し落してはいられない、ことにこの詩篇は。以前おのれの施した下線の意味を汲み取るのにさえ、数秒間を要してしまう。ましてや詩とは無関係な駄文をこの詩に添えることは出来ない。原詩を正しく訳して注釈に数ページを費やすのが礼儀というものだ。だが悲しいかな、いまのぼくにはその場がない。極東のこの島国では恐らく他の誰にもその場がない。故に歯を喰いしばってぼくなりにやる他は無いのだ。


外では、風が荒れくるい、稲光のあいまに、
雨がびんたを喰らわせて、五分ごとに、
電灯まで消える始末だ。暗闇の中、動転を
呑みくだした面面がダンス曲を
暗譜で奏でる。奥から、わが友がみなを
エネルギッシュにまとめあげる。と、クラリネットが身を捩り、
音の喧騒を破って、突きすすみ、不意の沈黙の中
たった独りみたいに発散する。

―――詩は「紙を吸う人びと」②
サント・ステーファノ・ディ・ベルボ、初秋の町のパヴェーゼ記念館、あの硝子ケースの中を覗き込んでからでも、早や十七年、ぼくは一体何をやってきたのだろう? 今更何を為そうというのか? ぼくだけに出来ることが残されているとして?


こいつら哀れな金管楽器はしばしば押しつぶされすぎる。
百姓の両手がキーを締めつけて、
どの額も、頑固に、地面からやっと見つめる。
過度の労苦に抑え、弱められた
憐れな血が、調べの中で呻くのが
聞えて、わが友がやっと彼らを指揮する。
棍棒を打ちつけ、鉋を掛け、人生を
むしりとるために両手の固くなった彼が。

―――詩は「紙を吸う人びと」③
浅川土手でタバコをふかす。上流右手に真っ白な富士、左手に雪を被っている山々は丹沢山系か。腰を下ろした枯れ草は火の元が心配なくらいによく乾いている。ここは禁煙だったかもしれない。暗夜に両岸に火を流したらさぞ綺麗なことだろう。二匹の火竜が天に立ち昇ることだろう、その秋は。


願わくば吾が背と共に春死なん花満開の満月のころ エリサ
如何な西行パクリのエリサでもこの一首だけで吾が消息と知れ、というわけではあるまいが……相変らず行方知れずのエリサは今頃何処をどう放浪していることやら。その如月の望月の頃に花の下にて何があるというのか?
詩は「紙を吸う人びと」④―――

かつては彼に仲間がいたし、彼はまだ三十だ。
腹を空かせて育った、戦後生れの面面だった。
彼もまたトリーノへ来た、人生を探して、
そして不正義を見いだした。笑みひとつなしに
工場で働くことを彼は学んだ。他人の飢えを
おのれの労苦で測ることを学んだ、
そしてどこもかしこでも不正義を見いだした。夜更けに
果てしない街路を眠たそうに歩きながら、心を落着けようと
したけれど、不正の上に耀く何千もの眩い街灯を
見ただけだった。しわがれ声の女たち、酔っ払い、
はぐれてよろめく木偶人形たち。ある冬
工場の電光と煤煙の中を、彼はトリーノに着いた。
そして労働とは何かを知った。人間の苛酷な宿命として
彼は労働を受け入れた。しかしすべての人間がそれを
受け入れるようにと、世界に正義があるようにとだ。


庖有肥肉、厩有肥馬、民有飢色、野有餓?。此率獸而食人也。         孟子
朱門酒肉臭,路有凍死骨                          杜甫
明日はまた出番。早く寝なければならない、おやすみ
詩は「紙を吸う人びと」⑤―――

しかし仲間を作った。彼は長ながしい言葉たちに苦しみ
終りを待ちながら、それに耳を傾けねばならなかった。
そこで仲間を作った。どのアパートにもそれには数家族がある。
都会はそれにすっかり包囲されていた。そして世界の表面は
それにすっかり覆われていた。彼らはおのれの内で
世界を凌ぐほどの絶望を感じていた。

―――見てのとおり、原詩の四つの「ネ」のうち一つ目は「長ながしい言葉たち」だが、二つ目は訳されていない。三つ目と四つ目は「それ」としてあるが「長ながしい言葉たち」かも知れない。ゆえにこの箇所は明らかな保留、ああ、この詩の核心が宿題となってしまった。もう時間がない。しかし足らないのは時間だけだろうか? しかしカルヴィーノさえもその懇切な編者註で分ることしか述べてないのだ。ほんとにおやすみ


ひとりずつ教えこんだバンドには構わずに、今夜
彼はそっけなく吹き鳴らす。豪雨の騒音も灯りも
彼は気にかけない。きびしい顔が苦しみを
注意ぶかく見つめながら、クラリネットを噛む。

―――詩は「紙を吸う人びと」⑥
ジンは美味しい。コトリと寝てしまった。テレビの騒音にうっすらと片目を開ければ、炬燵に横倒しになっているおのれがいる。やはり月曜はきびしい、銀座から豊玉経由ひばりヶ丘のO嬢二人がラストだった。風呂上りの下着にセーターを被って呑んでいて、まだしもだった。「うー、さむっ」と寝床にもぐりこむ。折角のアケが起きたらもう日が暮れていた。


久し振りに朝から端末に向う。昼はまだ遠い、時間が増えた気分だ。秘訣は「どうしようかな?」と思いながらも冷たい水で顔を洗ってしまうことだ。これでシャキっとする。朝飯前に散歩を済ませて仕事場に向えばさらに時間は増える。アマゾンでサウナスーツを買うことにした、千三百円。銀色の宇宙人みたいな恰好で散歩して、そのまま体操ボールに腰を下ろして端末に向えば火星人くらいには見えるだろう。


翡翠が水上の太枝に止っている。してみれば、数年前から鯉やカルガモが隣のあずまや池に移ってしまったこの湧水池にも何か獲物がいるのだろう。瑠璃色に耀く背中を見せている。水際の小枝に飛び移る。水面にホヴァリングしながら着水、何かを咥えた。嘴を立てて呑みこむ。小魚か、水生昆虫か。また太枝に戻ってきた。タバコに火を点ける。目を戻すと、太枝の上にオレンジ色のボールが止っている。こちらに胸を見せて止っているのだ。カワセミと目が合う、「旨かったかい?」煙を吹きかける、届きはしないが……
気にかかっていた詩行の手直しをした。以下はその続き。詩は「紙を吸う人びと」⑦―――

こうした目をしている彼をある晩ぼくは見た、彼よりも
十歳悲しく年上の兄と二人っきりだった、
灯を欠くり部屋でぼくらは夜を明かした。兄は
彼が作った無用の旋盤を仔細に眺めていた。
そしてわが友は宿命を非難した
鉋と棍棒に彼らを釘づけにしたまま
乞われずに、二人の老人を養わす宿命を。


満足な銃も作れぬ無用の旋盤だろうか?……ふと思う。
詩は「紙を吸う人びと」⑧―――

いきなり彼が叫んだ
世界が苦しんでいるとしたら、陽射しが
罵り言葉をひったくるとしたら、宿命のせいではない。
咎むべきは人間だ。せめて立去れれば、
勝手に飢えられれば、ノーと答えられれば
おれたちの両手を縛りに、愛と憐み、
家族と、一握りの土地を操る人生に対して。


ファッシズムとナチズムの台頭を許してしまった「長々しい言葉たち」に覆われた世界。言葉を銃弾に替えて闘ったパルチザンたち。世界はいままた「長々しい言葉たち」に覆われようとしている。アメリカ、イスラエル、日本によって。


いや、参ったね。先日のサウナスーツ、届いたはいいけれど、いくら真夜中で誰も見ていなくても、銀色の宇宙服なんて、こっぱずかしくてとても外を歩けない。上にズボン、ジャンバ羽織ってやっと仕事場に着くなり、脱ぎ捨ててしまった。とても着たままブルボールに坐って端末など打ち込んでいられなかったよ。要するに、滝のごとく汗の出る、汗かきスーツだね、帰りはもっと旨く着こなすとしよう。


54

Nousさん、出資・購入予約、ありがとう。ぼくは目下、縄文谷を纏めにかかっていて、掲示板のほうは聊かずるけています。新橋で冬牡蠣ラーメン喰ったら旨かったよ。Nousさんは花粉症は大丈夫なの?昨日、明日と出番で今日は狭間のアケ、いま起きて、さて何をしようかな、というところです。
arufa-yukoさん、出資予約ありがとう。ぼくは知りたいな、あなたの正体。春一番のこの日、あなたに想いを凝らしています。

ご無沙汰してしまったけど、この数日間、金庸の武侠小説に嵌って、射雕英雄伝五巻と笑傲江湖七巻を読破してホッと一息ついたところ。何冊読んでも一定の面白さは変らないと見極めがついてやっと落着いた。寝食を忘れて読み耽るほどの物でもない、暇なとき、仕事の合間に愉しんで全作を読めばいいのである。その前に縄文本を読みきってしまわねば。

相変らず金庸に嵌り続けていて、雪山飛狐、連城訣二巻、侠客行三巻と、つい読み耽ってしまった。為すべきことは山積しているのに、近年には珍しい贅沢だった。柳生兵庫助(津本陽)や大菩薩峠(中里介山)を読み返したくなったことだった。介山の死去した阿伎留病院の解体風景を道路を隔てて時折眺めながら縄文埋没谷の発掘に汗を流したのも何かの縁かも知れない。

《、凡(およ)そ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いに怨(うら)まれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。》
ああ、参ったなあ――青空文庫で中里介山の文章(生前身後の事)に触れるうちに、この一節に突当ってしまった。死んでしまいたい。ぼくはどちらかと言うと、介山よりは沢田タイプの人間なのだろう。しかるに先生はぼくの手紙を封を切らずに捨て置いて、ぼくの死後十年経って、やおら封を切る介山タイプのお人だろうし…… あのころぼくらの間で流行った標語は、「小さな親切、大きなお世話」とか、「ドントビリーヴオウヴァーサーティ」とかだし……

《大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。》
中里介山「大菩薩峠」劈頭の一文である。この一文から妙見(みょうけん)の社(やしろ)辺りまですっぽり記憶から抜け落ちている。前回読んだのが如何に十数年前とはいえ、これでは初めて読むに等しい。実際、青空文庫のお陰でスクリーン上で読むのはこれが初めての経験だから、新たな読書体験と呼んで差し支えない。全四十一巻、楽しみなことだ。真っ昼間から飫肥杉(オビスギ)をちびりちびりやりながらの読書では行儀悪いことこの上ないが、介山先生を少し怒らせてみたい気もするし、……まっ、花粉の対症療法みたいなもんだ……か?

蝶墜ちて大音響の結氷期 疾く逃れらん吾ときみとは
上の句は俳人赤黄男、ああ、〈天の狼〉よ!
蝶墜ちて大音響の結氷期 疾く走るらん吾ときみとは
と、すべきか?
あるいは、 蝶墜ちて大音響の結氷期 疾く走るらんきみと吾とは
と、すべきか? パクリの碧としては?

満開の桜の梢越しに星が瞬く。
あと数日、十何年後かの週末に往生を遂げれば、満開の桜のもと、恋人の如き満月の光を浴びながら、まさに西行先達の歌を地で行くことになる。
願わくば花の下にて春死なんその如月の望月のころ   西行
満開の花の梢に瞬くは淋しき星の二つ三つかな     碧

55

大菩薩峠は漸く年魚市の巻まで読み進んだが、ここへ来てebookで『蝶の戦記』を読み出してしまった。どうやらスクリーン上でも濫読の幣は抜け難いらしい。
尤もebook無料お試し版はいいところで切れてしまった。後は『忍びの風』を返したついでに図書館で借りて読めばいい。それには縄文本の残りを返却せねば…… ともあれ大菩薩峠に戻るとしようか。
例えば鈴慕の音色に耳傾けながら、机龍之介の想念を追うのは愉快なことだし……
不思議なことだ、鈴慕の曲はいくら聴いても聞き飽きるということがない。このまま耳を傾けながら、目は『畜生谷の巻』までも進むのかも知れない。
満眼の月を眺めて白骨谷 真虚霊の音に舞うは粉雪
介山と海山と、眼は畜生谷に誘われ、耳と心はひねもす虚鈴に溺れる…… 先の一首はやはり
満眼の月を眺めて白骨谷 虚霊の音に舞う粉雪か
かとも思う間に、身は真冬の飛騨にあらず満開の満都の桜の下にあって、「あっ、白き蝶が二頭っ」と思えば、ハラりハラリと舞ってきた軽い大判の雪ひらがそぞろ霙に変って雷さえ鳴ったことだった。
先の一首、ここはしっかりお雪ちゃんに感情移入して、やはり
満眼の月冴え冴えと白骨谷 雪と変じて蝶と舞う吾
か、知らん。それでも歌になっているかどうか、怪しいものだ。本手調子八寸。

青年、壮年、老年と、画期的に一度は通読せねばらない大小説のひとつが、この大菩薩峠なのかも知れない。それにしてもまだ弁信の巻、通読三十数巻を経てなお前途に十巻足らずを残している、やれやれ。曲は松風。爪を切りながら耳を澄ますには勿体無いような調ではあったし。しかもなお四十一巻を以て未完に終ったことが早くも惜しまれてならない心境なのだ。誰か敢て続巻をものすものはないか?

さて、
朝寝して昼寝するまで宵寝して、時々起きて居睡りをする、
運転の合間あいまに読み進んだ長丁場の大菩薩峠もようよう山科の巻、あとは四十一巻目の椰子林の巻を残すのみとなった。爾後の展開が気にかかる。無名丸と胆吹山、何れも決着は付かぬにしても、少しはその展開を自前なりとも膨らませたいものだと、温い湯舟で茹だったりしている。

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続大菩薩峠・安土の巻・中里海山



目もまぶしい葉桜の山道をのっしのっしと、琵琶の湖から安土の城跡めざして登ってくる大男と浪人者の姿があります。大男が図抜けて背の高いのも当然、よく見ると先の一人と見たのは二人、四、五歳の童を肩車したまま急な坂を登ってくるのです。これは甲州有野村、富士と白根にかこまれた別天地からいつ出てきたのか、武州水車小屋番人の与八と机竜之介の遺児郁太郎とに間違えありません。しからばこの三人連れのしんがりを行く浪人者とは何者?
「先生、こう暑いほどの陽気では、わたしどもみたいに無学の者でも夏草やと唸りだしたくなりますね」
「うむ、かの信長公の夢の跡を尋ねて登るのだから、春たけなわとはいえ、夏草やの句がきみの口を衝くのも、あながち場違いとは言えまい」
と、与八にしては珍しい饒舌を無難に受けた浪人者はむろん竜之介ではありません。平形の編笠を被り、肩当のついた黒の紋つきを着て、一刀を無造作に落し差しにした穏かなこの人は過ぐる日、琵琶の湖畔で釣を試みていた青嵐居士その人であります。
安土山(標高一九八メートル、比高一一二メートル)は往時、西の湖、常楽寺湖、伊庭内湖に三方を囲まれ、湖水に突き出た岬のような山で、鬱蒼と茂る草木を分けて吹く琵琶湖の風が汗ばむ肌に心地よい限りでした。見晴台に着くや与八は胸に抱くように吊るしてきた手彫りのお地蔵さまを真ん中に安置して一心に拝みます。郁太郎はとうに与八の肩を降りてどこかで遊びまわっているのでしょう。やがて腰の大きなむすびを頬張り、竹筒の清水で喉を潤す三人を見ます。
「ここはまたひらけたよい眺めだなあ、この下の秀吉公屋敷跡に道庵先生の診療所と図書館を建てて苦学生を集めるのは良い考えだよ。あんなにみなで苦心惨憺した胆吹山の開墾地も一時は閉じてしまって、残念なことに思っていたが、きみが来てから自然と人が集って精を出すものだから、今ではじゃが芋とハト麦のたいそうな収穫が見込まれてひと安心さ」
「はい、弥之助さんが良い知恵をどんどんお出しになって、率先してお働きなさるから、蕎麦も大豆も大根も、南瓜や茄子だって大安心です。伐りだした雑木の炭焼きが上手くゆけば、みな大助かりです」
「うむ、わたしは胆吹の開墾地に今現在活気があるのが何より嬉しいよ。不破の関守氏に頼まれて、上平館の裏手に建て増した大きな土蔵二つに書画骨董の類を数多収めたのはいいけれど、胆吹王国そのものはどうしたものかと案じられてならなかった。きみが来てからおいおい三百人もの老若男女が集って、しかも毎日楽しげに自活している。これはいまどき大変なことだよ」
「わたしこそ琵琶の湖畔で先生に拾われて、午前中は好きな畑仕事、午後は郁太郎さまや子供たちと習い事、夜はお地蔵さまを彫ったり先生方や弥之助さんのお話を聴けるのですから、幸せでございます」
心配したお銀さまの諒解も関守さんの斡旋で難なく取れて、胆吹王国の経済的な後ろ盾には今後は甲州有野村の大尽伊太夫が当たり、その後継者たる与八と郁太郎が当主に納まったのですから万事安心です。青嵐居士、弥之助さん、道庵先生もいます。順風満帆の昨今、胆吹王国は早晩経済的に自立して、何事もなければその余沢が近江はおろか甲州にまで染み出すことでしょう。山科の光仙林のお銀さまと関守さんは乱世の書画骨董蒐集事業を古今東西のあらゆる書物の蒐集にまで拡げて、来る安土山図書館の蔵書を充実せんとし、将来は美術館、博物館の建設をも目論んでいます。お角さんはお角さんで麓に音楽堂と劇場の建設を願っています。いえ、お角さんのことですから早くも興行を目論んでいます。琵琶湖畔で人力飛行機の飛行競争を興行するなんぞはお手の物でしょう。それではかの宇治山田の米友、お雪さん、竜之介、この三人は今頃果たしてどこにどうしているのでしょう?
と、そのとき安土の見晴し台地にサッと影が奔り、天空に飛び去った。これは過ぐる日の狂鳴の夜、お雪ちゃんの目の前で、米友によって解き放たれた胆吹山の大鷲の雛、ではないいまはもう若鷲です。この若鷲が、
「なんだか、大きな人間だなあ」
とばかり、与八の頭上を一巡りして、一足先に胆吹山の塒に帰ってゆきました。



「わしはほれ、この『百姓大腹帳』を腰にぶら下げては諸国廻歴をして、お百姓たる者、満腹せねばならんと、村々のお百姓たちに飢饉への備えを説いてきたのだが、なかなか信用されなくて困った。一応話は聴いてくれても、他国者の言うとおりに新たに畑を起す者はめったにおらんのじゃ」
「そりゃそうじゃ、爺婆の代からやってきた仕様を、なんぼ余所者が言ったかとて、なかなか変えるものではない」
「んだ、んだ」
「がや、がや」
ここは胆吹山上平館の囲炉裏端で、七人のお百姓を相手に、五十がらみ、小肥りに太って、もんぺを穿いた風来人がしきりに話を弾ませている。
「ところがどうだ、与八さんがあの訥々とした話しぶりでジャガタラ芋とハト麦の効用を説いて、種芋と種を配りながらその作り方と栽培法を手取り足取り教えると、やがてわれもわれもと空いた畑にジャガタラ芋を植え、ハト麦の種を撒きだすじゃないか」
明日の朝も早いのに、夜の更けるのも忘れて話し込むこの風来人こそは武州刎村の百姓弥之助でありました。
「わしは負けたよ。与八さんときたら力は十人力で、あんたらも見るとおり、言葉はのろいが黙々と仕事を片して、自分の連れている子の世話ばかりか他所の子供衆の面倒まで見て、一緒に遊んで、手習いまで教えている」
「そうだそうだ、隣村のチエ婆がお上人さまの生れ変りだって拝んでいったのも無理はねえ」
「なあに、隣村ばかりのもんけえ、こないだも、有り難いお地蔵さまを彫って呉れろって、見知らぬ若い衆が見事な槙の材を担ぎ込んだじゃねえけ」
さて、夜もさらに更けたので、
「明日もまた早いぞ」
と、椀一杯の酒をみなに振舞ってお開きにして、弥之助さんは独り炉辺に居残って何やら今日感じたことをこまごまと例の「百姓大腹帳」に記しております。明日にはここ胆吹山に青嵐居士と与八さんが戻ります。雑木、間伐材の薪を簡便に炭焼きするのには何とか成功しましたが、相談したいことがまた山ほど沸いてきました。胆吹王国と言うのなら、この開墾村をほんとうにお百姓さんたちの王国にせねばなりません。



さて、いくら尼法師に無制限の逗留と、無条件の寄食を許されたとはいえ、いつまでもこの老尼と一庵で大人しく痩身を養っていられる竜之介でありましょうか?
旬日も経ぬある夜のこと、寂光院の門から夜明け前の最も深い闇の中へ、ふわりと足を踏み出した白衣の行者があります。覆面をして両刀を落し差し、杖を携えて……、これぞ机竜之介その人でありましょう。庵を出でずして見送る、思いのほか瘠せて面変りした老尼の頬に涙が一滴美しく光っていたことです。
月もなく星もなく雲が低く垂れ込めて風さえない大原の里に遠く鶏鳴が聞えます。いつしか青い闇が辺りを蔽っています。
「ウ、ウウー」
一本道の先で凄まじい唸り声が生じました。七、八メートル先に真っ黒い獣が蟠っています。犬に似て到底犬ではありえない、腸に低く響く物凄い唸り声です。この正体不明の獣の跳躍力からすれば、すでに一刀一足の間合いに入っています。このときすでに竜之介は杖を捨て、いつもの脇差ではなく大刀の鯉口を切りながら身を低くして、そろりと左足を前に出しました。
「まっ、待ったあ! かかるな! 斬るな!」
真っ黒い獣と真っ白い行者に同時に声をかけて、止めに入った怪童があります。見れば左手は獣の片耳をしっかと掴み、右手はこれで行者の必殺の刃を食い止めんとばかりに杖槍をTの字に衝きつけています。杖槍で知れました。子供ではない、これは宇治山田の米友です。薄青い闇にハッタと目を凝らした米友があんぐりと口を開けました。
「お、おめえは、竜之介じゃないか!」
と舌を捲き、その途端に、例によっての地団駄を踏みました。
「そう言うおまえは米友だな」
パチリと早くも竜之介は刀を収めてしまいました。
「お、おめえ、けえってきたのか? ま、いいや、けえんな」
米友はまだ口をパクパク開けながらくるりと身を返してしまいます。竜之介がその後を歩む。これを見送った怪犬はこのとき初めてのそりと歩み始めます。この虎斑の猛犬デンコウは当時日本でムクに次いで強い犬です。速さでは引けをとりません。そのムクはいま太平洋の真っ只中、無名島で活躍もしくは雌伏中です。しかしいかな電光グレートデンでも関守氏は知らぬが一頭よく若獅子を倒すカンガルー犬には敵いません。そのカンガルー犬でも狼を嫁にする甲斐犬には油断すべきではないのです。

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続大菩薩峠・中里海山・海山島の巻



今朝もただ果てしない大海原に目を遊ばせていた駒井甚三郎は、
「そうだ、海山島と名づけてしまおう」
と、思いました。この無名島をです。
「そして無名丸は海山丸とすればよい」
実際には午後一番に衆議にかけて、この島と船の名前を募ったのですが、結局、無名島、無名丸は甚三郎の発案どおり、海山島、海山丸に決まりました。この島第一号の多数決決議がこの命名の件でありました。
いまでは周囲五十二キロのこの島の地勢、産物も絵描きの田山先生によってすっかり踏査されています。まず最も重要な水の手ですが、さして高くもないこの島唯一の山、海山北麓に三つ、南麓に二つの清水が滾々と湧き出しておりました。

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紫陽花に負けじななまた七変化よろしくどうぞ白浜碧
またまたご面倒おかけしています。
小説へのカテゴリ変更、願います。ジャンルは〈恋愛〉辺りで結構です。しとしとと梅雨らしい雨がやっと降り出しました。紫陽花に負けじななまた七変化よろしくどうぞ白浜碧。ノンフィクションフィクションというカテゴリでもあればそこに入るのでしょうが。

藤沢周平をまた読んでいる。全集本とさまざまな単行本を併せ読んでいるから、いつ終るとも果てしない。パヴェーゼ働き疲れてにいつ戻れるのか、不安だ。引き出して積み重ねたままの原書に果たしていつ戻れるのか、さらに不安だ。
深夜、素振りを省いて、木立にいきなり撃ち込みを掛けたら、木刀の切っ先が折れ飛んだ。しっかりと撃ち込んだ初太刀は何とも無かったのに、横着して横面を飛ばしたのがいけなかったのだろう。手許が絞り込めてなかったのだ。怯まず抜き胴を放つ。これも折れ飛んだ。愛着のあった赤樫の木刀が手許に残ったのは三分が一ほど。ぼくの知性も似たようなものだ。

先日返信したごとく、小説へのカテゴリ変更、諒承いたしましたので、「ななまた」公開宜しく願います。すでに変更処理に入っていらっしゃるのでしたら、催促がましくてご免なさい。昨日はやっと梅雨らしい雨が降りました。多摩川から赤羽まで走って、明け方帰庫しました。紫陽花に負けじななまた七変化宜しくどうぞ白浜碧

抜けるように青い空の高みを白い小さな雲が飛んでゆく。
《アレクサンドロスは死んだ》
無二の親友、妹の夫、同名のアレクサンドロスの死が衝撃でない筈はない。鞍とはみを外した愛馬ブケファラスと愛犬ぺリタスが遠くの野で嘶き吠え立て遊びまわっている。
「きみは東へぼくは西へ、どこまでもゆくんだ」
そう言って微笑んだアレクサンドロスはいまはもういない。思えば、遠くまで来たものだ。ローマ兵との戦に明け暮れた一年半。このランゲの丘丘に連なる北の峨々たる山嶺を越せば、そこはもう広く開けたフランク族の土地だ。
――『空色の炎』白浜碧から

生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
――『最勝王』服部真澄から

「正かなづかひで……」、いいなあ、読むのは啄木、透谷あたり? 貴兄の身体が空いたらぶらりと小さな旅でもしてみたいところだね。小生は前言のごとく浅川縁のプールで泳いで、葦簀の陰で眠ったのに、ついさっきまで肌が火照った感じでした。明日も行く心算。

なぜか「茂吉」。茂吉を読まうかと思つてゐます。後期(敗戦後)の茂吉ですね。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨降りそそぐ(小園)
全けき鳥海山はかくのごとからくれなゐの夕ばえのなか(白き山)

ぼくも貴兄に倣って、しばし茂吉を覗いてみました。
十三歳の時に上山(かみのやま)小学校の訓導が私等五人ばかりの生徒を引率して旅に出た。第一日目は上山の裏山越をして最上川畔のドメキ(百目木)といふところに一泊した。ここに来ると川幅はもう余ほど広く、こんな広い川を見るのは生れて初てである。また向うの断崖(だんがい)に沿うた僅ばかりの平地をば舟を曳(ひ)いてのぼるのが見える。人が二、三人前こごみにのめるやうにして綱を引いてのぼつてゐる。かういふ光景もまた生れて初てである。暮方になる。川の規模の大きいのを見てゐると、今度は小さい帆を張つた舟が、反対の方に矢のやうにくだるのが見えた。これは曳舟とは違つてまた特別な印象である。その時『みんな知つてんべ、最上川は日本三急流の一だぞ』と先生がいつた。その日の夕食には鮎(あゆ)の焼いたのが三つもついたし、翌朝はまた鮠(はや)の焼いたのが五つもついた。何も彼(か)も少年等にとつては珍しい。十二銭づつばかりの宿料を払つて其処(そこ)を立つた。
『鮎旨(うま)かつたなえ』『旨かつたなえ、おれ頭も皆食(く)た』『おまへ腹わたも食(く)たか』『うん腹わたも食(く)たす、骨もく食(く)た』
第二日は湯殿山の近くの志津に一泊、翌日は案内者を雇つて六十里越をして荘内に入つた。六十里峠はまだ一面の雪であつたが、山国の少年等はそんなことには毫(すこ)しも屈しない。
――斉藤茂吉『最上川』から

水鳥が池を捨てるが如く、家を捨てよ。お前がお前の燈火だ。その燈火で足元を照らせ――。
――『国銅』帚木蓬生より

帚木蓬生の『逃亡』もまたいい。闘いの場で遭遇したら躊躇いもなく撃ち殺した、その主人公の逃亡を重ねる姿に涙してしまう。

夜の公園は蝉たちの饗宴だ、昼間は鳴りを潜めていたのに。生温かい夜気をかき混ぜるように歩くと、汗が噴き出す。
やはり藤沢周平の『一茶』がいい。
ある時は仕官懸命の地をうらやみ――終に無能無才にして此の一筋につながる。
芭蕉と一茶。水上勉と藤沢周平。
やはり一茶だ。

春立や四十三年人の飯          一茶

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも     茂吉

あつき夜をありがたがりて寝ざりけり     一茶

暑き夜をありがたがりて夜もすがら    エリサ

暑き夜をうしとおもへど星さがす      碧

暑き日の宝と申小藪哉       一茶

蔭求め電線伝い歩み行く         エリサ

桃喰えば暑さ忘れて舌が鳴る      碧

暑き日を海にいれたり最上川 芭蕉  

青空と一つ色也汗ぬぐひ 一茶

カンカンと叩きつけるよ照り殺し      碧

今朝も行く照り殺し道他人も無し      エリサ

今朝も行く真白き雲と蟻の吾叩きつけるよ照り殺し道    昶

雲白く青き空なりア・キラーかよ殺し屋独り吾道を行く   昶

馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし       節

からくして夜の涼しき秋なれば昼はくもゐに浮きひそむらし         節

うべしこそ海とも海と湛へ来る天つ霧には今日逢ひにけり          節

秋草のにおほへる野辺をみなそこと天つ狭霧はおり沈めたり        節

うつそみを蔽ひしづもる霧の中に何の鳥ぞも声立てゝ鳴く          節

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
啄木
怒る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九割りて死なまし
啄木

――ああ、やはり啄木こそはわれらが同時代人だ、いつまでも。

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと              啄木

どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな       啄木

何がなしに
頭のなかに崖ありて
日毎に土のくづるるごとし                   啄木

熱きまで
練りたる史も消え去りぬ
寝覚めた後の物憂き空へ                    碧

ふと見れば
机に向ひてパズルする
妻の昔の後姿よ                        昶

庭石に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒りいとしも                    啄木

タバコのむ
耳にジャズは懐かしき
コルトレーンは健在なりき                   碧

かの家のかの窓にこそ
春の夜を
秀子とともに蛙聴きけれ                    啄木

人ひとり得るに過ぎざる事をもて
大願とせし
若きあやまち                         啄木

忘られぬ顔なりしかな
今日街に
捕吏にひかれて笑める男は                   啄木



人とともに事をはかるに
適せざる、
わが性格を思ふ寝覚かな。                       啄木

友も妻もかなしと思ふらし――
病みても猶、
革命のこと口に絶たねば。                      啄木

やや遠きものに思ひし
テロリストの悲しき心も――
近づく日のあり。                          啄木

春は空からさうして土から微に動く。毎日のやうに西から埃を捲いて來る疾風がどうかするとはたと止つて、空際にはふわ/\とした綿のやうな白い雲がほつかりと暖かい日光を浴びようとして僅に立ち騰つたといふやうに、動きもしないで凝然として居ることがある。水に近い濕つた土が暖かい日光を思ふ一杯に吸うて其の勢ひづいた土の微かな刺戟を根に感ぜしめるので、田圃の榛の木の地味な蕾は目に立たぬ間に少しづゝ延びてひら/\と動き易くなる。――長塚節『土』

ふと見ると
机むかひてパズルする
妻の背中などか若やぐ                         昶

其の刺戟から蛙はまだ蟄居の状態に在りながら、稀にはそつちでもこつちでもくゝ/\と鳴き出すことがある。空から射す日の光はそろ/\と熱度を増して、土はそれを幾らでも吸うて止まぬ。土は凡てを段々と刺戟して堀の邊には蘆やとだしばや其の他の草が空と相映じてすつきりと其の首を擡げる。軟かさに滿たされた空氣を更に鈍くするやうに、榛の木の花はひら/\と止まず動きながら煤のやうな花粉を撒き散らして居る。蛙は假死の状態から離れて軟かな草の上に手を突いては、驚いたやうな容子をして空を仰いで見る。さうして彼等は慌てたやうに聲を放つて其の長い睡眠から復活したことを空に向つて告げる。それで遠く聞く時は彼等の騷がしい聲は只空にのみ響いて快げである。―― 長塚節『土』

鵙の声透りて響く秋の空にとがりて白き乗鞍を見し            節

生きも死にも天のまに/\と平らけく思ひたりしは常の時なりき      節

我が命惜しと悲しといはまくも恥ぢて思ひしは皆昔なり        節

四十雀なにさはいそぐこゝにある松が枝にしばしだに居よ       節

山茶花の畢なる花は枝ながら背きてさけり我は向けども        節

ゆくりなく拗切りてみつる蚕豆の青臭くして懐かしきかも       節

蚕豆の柱の如き茎たゝばいづべに我は人おもひ居らむ         節

彼等は更に春の到つたことを一切の生物に向つて促す。草や木が心づいて其の活力を存分に發揮するのを見ないうちは鳴くことを止めまいと努める。田圃の榛の木は疾に花を捨てゝ自分が先に嫩葉の姿に成つて見せる。黄色味を含んだ嫩葉が爽かで且つ朗かな朝日を浴びて快い光を保ちながら蒼い空の下に、まだ猶豫うて居る周圍の林を見る。岬のやうな形に偃うて居る水田を抱へて周圍の林は漸く其の本性のまに/\勝手に白つぽいのや赤つぽいのや、黄色つぽいのや種々に茂つて、それが氣が付いた時に急いで一つの深い緑に成るのである。雜木林の其處ら此處らに散在して居る開墾地の麥もすつと首を出して、蠶豆の花も可憐な黒い瞳を聚めて羞かし相に葉の間からこつそりと四方を覗く。―― 長塚節『土』

木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり    茂吉

赤松の幹より脂の沁みいづる暑き真昼となりにけるかも        赤彦

今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅の光         左千夫

雜木林の間には又芒の硬直な葉が空を刺さうとして立つ。其麥や芒の下に居を求める雲雀が時々空を占めて春が深けたと喚びかける。さうすると其同族の聲のみが空間を支配して居可き筈だと思つて居る蛙は、其囀る聲を壓し去らうとして互の身體を飛び越え飛び越え鳴き立てるので小勢な雲雀はすつとおりて麥や芒の根に潜んで畢ふ。さうしては蛙の鳴かぬ日中にのみ、之を仰げば眩ゆさに堪へぬやうに其の身を遙に煌めく日の光の中に沒して其小さな咽の拗切れるまでは劇しく鳴らさうとするのである。蛙は愈益鳴き矜つて樫の木のやうな大きな常緑木の古葉をも一時にからりと落させねば止まないとする。―― 長塚節『土』

ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし 茂吉

春雨にぬれてとヾどけば見すまじき手紙の糊もはげて居にけり      節

ひたすらに病癒えなとおもへども悲しきときは飯減りにけり       節

単衣きてこゝろほがらかになりにけり夏は必ず我れ死なざらむ      節

頬の肉落ちぬと人の驚くに落ちけるかもとさすりても見し        節

楢の木の嫩葉は白し柔かに単衣の肌に日は透りけり           節

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり         節 

此の時凡ての樹木やそれから冬季の間にはぐつたりと地に附いて居た凡ての雜草が爪立して只空へ/\と暖かな光を求めて止まぬ。土がそれを凝然と曳きとめて放さない。それで一切の草木は土と直角の度を保つて居る、冬季の間は土と平行することを好んで居た人も鐵の針が磁石に吸はれる如く土に直立して各自に手に農具を執る。紺の股引を藁で括つて皆田を耕し始める。水が欲しいと人が思ふ時蛙は一齊に裂けるかと思ふ程喉の袋を膨脹させて身を撼がしながら殊更に鳴き立てる。――          長塚節『土』

牛の乳をのみてほしたる壜ならで挿すものもなき撫子の花       節

疲れたる手枕解きて外をみれば雨打ち乱し潮の霧飛ぶ         節

手を当てゝ鐘はたふとき冷たさに爪叩き聴く其のかそけきを  節

枯芒やがて刈るべき鎌打ちに遠くへやりぬ夜は帰り来ん        節

彼我の違いはあれ、パヴェーゼの『故郷』に最も近い日本の作物は長塚節の『土』だと思う。『土』を読み進みながら、『故郷』が思われてならなかった。
「勘次はタリーノだ、おつぎはジゼッラだ……」
『土』が完全な三人称小説であるのに対して、『故郷』は主人公〈ぼく〉の眼を通して描かれる一人称小説だ。「門からつきまとってきた」で始まるその小説はファシストの監獄から釈放された〈ぼく〉がつきまとうタリーノに連れられて、釈放されたその足でランゲの丘にあるタリーノの生家に踏込み、僻村で〈工学士さん〉と呼ばれて機械工として働くことから始まる。血が流され、火事がある。その都度、タリーノは隠れて、頭を抱えて発見される。
「ああ、まったく勘次そのものだ、タリーノは……」

帚木蓬生の『アフリカの瞳』もまたいい本だよ。客待ちの間に『アフリカの蹄』と『三たびの海峡』も読むとしよう。

paesi tuoi を読む。なんと読み落しの多いことか! もう何度も読んだ筈なのに! einaudi版を読み止しのまま、bosco版を探し出して開く。書込みだらけの読みづらい2ページ半を読むだけで、あのころの経緯をたどるだけで嵐のような小説が一本できてしまう。ぼくはあのころ本を何冊も読んで、実は一冊も読んでいなかったのだ! あのころ、ぼくの頭は、胸は読書をするにはあまりにも煮え滾っていた。冷え冷えと冷たくなる前に、いま一度paesi tuoiに出会えたのは僥倖だ。

Cominncio' a lavorarmi sulla porta.
門からぼくにつきまとってきた。
Io gli avevo detto che non era la prima volta che uscivo di la' e che un uomo come lui doveva provare anche quello, ma ecco che si mette a ridere facendo il malizioso come fossimo uomo e donna in un prato, e si butta sotto braccio il fagotto e mi dice: - Bisognerebbe non avere mio padre-.
ぼくはあそこを出るのが初めてではない、彼のような男も一度は味わっておくべきことだ、と言いきかせておいた。それなのにあいつはすぐに笑い声をたて、まるで草原の男女のように変なまねをする。そして荷物をかかえこみ、ぼくに言う。「これで親父さえいなけりゃなあ」
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

彼が笑い出しかねないぐらいのことは、ぼくも予測していた。
Che gli scappasse da ridere me l'aspettavo,
ああいう不器用な男にかぎって、なかから出るときに変なまねをする。
Perche' un goffo come quello non esce di la' dentro senza fare matterie,
それにしてもあれは話のきっかけをつくろうとするときのつくり笑いだった。
ma era un ridere con malizia, di quelli che si fanno per aprire un discorso.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社 

「今夜は親父さんと一杯やるんだろう」道を見つめながらぼくは言う。
- Stasera mangerai la gallina con tuo padre, - gli dico guardando la strada.
「初めての出所だから、おまえの家じゃ結婚式みたいな騒ぎだろう」
- La prima volta che si esce dal giudiziato, a casa ti fanno la festa di nozze -.
彼はぼくのうしろについてくる、そしてぼくらの脇を大急ぎで走り抜けていったアイスクリーム売りの車が、ぼくら二人の歩行者を脅かしでもするかのように、よりそってきた。
Lui mi veniva dietro e si stava attaccato come se il carrettino dei gelati che passava a tutta corsa minacciasse noi due pedoni.
まるで大通りを一度も横切ったことがないみたいだった。それとも、すでにぼくにつきまとっていたからか。
Non aveva mai traversato un corso, si vede, o mi stava gia' lavorando.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

いま思い出すと、ぼくも彼も刑務所を振り向かなかった。
Mi ricordo che ne' io ne' lui ci voltammo a guardare le Carceri.
街路樹の濃い緑が目にしみた、それにひどい暑さだった、ネクタイをきつくしめていたせいもあり、ぼくは汗びっしょりだった。
Faceva effetto vedere le piante spesse del viale e faceva anche gran caldo, tanto che sudavo tutto, per via della cravatta stretta.
なかにいたときと同じように暑かった、しばらく歩いてからぼくらは日射しの降り注ぐ角を曲った。
Faceva caldo come dentro, e a un certo punto avevamo scantonato in mezzo al sole.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

「ピッシャッ、ピッシャ」
「顔を殴るな!」
「ズ、ズーッ、ズ」 物凄い力で押し捲ってくる。ぼくは台所の床からトイレの扉まで押し捲られてしまった。感心なことに流石に手を挙げてまでは歯向かってこない。ぼくも固めた拳を息子の鼻筋に炸裂させることは控えた、敵ではないのだから。しかし凄い力だ、まるで牡牛並みだ。でかくなったものだ! タリーノはここにもいる。
かみさんは例のおかんとおとんとぼくの話を読んでいる。次に貸してもらうことにした。エッフェル塔みたいな行灯つけて東京タワーの下は日に何度も通るのに、その本は読んだことがなった。何かしら、救いになるかもしれない。息子は近ごろ料理の腕を上げた。将来はわが家のシェフに収まる了見かもしれないが、はて、どうしたものか……

「誰もおもてにいないじゃないか」
- Non c'e' nessuno in queste strade, -
まるで自分の家に帰ったみたいに、落着きはらって彼は言う。
Sento che dice tutto calmo, come se fosse a casa sua.
うわべは平静そのものだった。
Pareva gia' tranquillo
それゆえ〔それどころか〕、はた目には、ぼくらが二頭の牡牛みたいにどちらを向いて歩き出してよいかもわからない、とは見えなかっただろう[と見えたのにさえ彼は気がつかなかった]。
e neanche s'accorgeva che andavamo come i buoi senza sapere dove,
彼は首に赤いハンカチを巻き、包みをかかえ、コール天のズボンをはいていた。
Lui col suo fazzoletto rosso al collo, il suo fagotto, e le sue brache di fustagno.
こういう無神経な田舎者にはわかるはずもなかった。
Questi goffi di campagna non capiscono un uomo che,
しかしどんなに経験豊かな人間でも、ある朝、いきなり外へ放り出されたら、考えがまとまらずに、どうしてよいかわからなくなってしまうだろう。
per quanto navigato, messo fuori un bel mattino si trova scentrato e non sa cosa fare.
誰だってそのくらいの覚悟はしている。
Perche' uno poteva anche aspettarselo ma,
が、いざ釈放されてみると、すぐには娑婆の感覚がもどってこない。
quando lo rilasciano, li' per li' non si sente ancora di questo mondo
それで、家出をした人間みたいに、やたらに歩いてしまう。
e batte le strade come uno scappato da casa.
「せめて日陰を歩こう、金がかかるわけじゃあるまいし」
- Andiamo almeno all'ombra; non ci costa un centesimo, -
彼を歩道に引き上げながら、ぼくは言う。
gli dico tirandolo sul marciapiede.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社(*〔 〕内は筆者記す。)

歩道に上がると、彼はまた愚痴をこぼしはじめる。
Lui viene e ripiglia a lamentarsi.
いつか、寝棚で横になって、聞かせられた話の蒸し返しだ。
Faceva il discorso che mi aveva gia' fatto disteso sulla branda uno di questi giorni.
あのころは猫の手も借りたい季節だったから、彼の親父はせめて取入れがすむまで息子の逮捕を待ってくれるよう警察にねじこんだ。
Che suo padre in quella stagione aveva bisogno di braccia e aveva gridato ai carabinieri che aspettassero a prendergli il figlio dopo il raccolto,
そして村の留置場の格子窓の下に来ては、息子を怒鳴りつけ、焼けた家の持主たちにこの損害の賠償は[をさせるよう]訴えてやる、とわめき散らした。
e al carcere mandamentale s'era fermato sotto la grata a minacciarlo e voleva intentare causa per danni ai padroni della casa bruciata.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社(*〔 〕内は筆者記す。)

「親父さんはいくつだい?」とぼくはたずねる。
- Quanti anni ha tuo padre? - gli dico.
「六十過ぎだ」
- Piu' di sessannta.
「六十過ぎで、まだそんなに頑固なのか?」
- E con piu' di sessanta e' ancora cosi' dritto?
ここでタリーノはいかにもなれなれしげな笑顔にもどった。
Qui Talino torno' a ridere come se fossimo soci.
そして愚痴をこぼしては笑い、ぼくのあとをついてきた。
Si lamantava e rideva, e teneva tutto il marciapiede.
人通りが出てきた、
Cominciava a passare gente e si scontravano,
タリーノがわがもの顔にのし歩くので、人とぶつかってばかりいる。
perche' Talino camminava come se fosse in piazza solo.
ぼくらはどちらからともなく市の中央に向かって歩いていた。
Andavamo decisi verso centro e non so chi guidasse:
こうして彼はぼくについてきた。そういう彼を横目で見ながら、ぼくは彼を歩くに任せておいた。だからぼくのほうが彼についていった、と言えないこともない。
lui veniva con me, io lo guardavo, lo lasciavo camminare, e venivo con lui.
ぼくはなるべく顔を知られていなそうなコーヒー・ショップをさがして、とにかくコーヒーを一杯のみたかった。そして身の振り方を決めたかった。
Cercavo un bar che non mi conoscessero, per prendere un caffe' e pensarci sopra.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社


アイスノン潜ませ被る夏帽子                      エリサ
保冷剤忍ばせ被る夏帽子                        エリサ
アイスノン潜ませ被る帽子かな                     エリサ

正午はとうに過ぎていた、そしてようやく駅前の公園に彼をすわらせることができた。
Era gia' di mezzogiorno passato e l'avevo solamente seduto nel giardino della stazione.
彼は裁判所発行の乗車許可証を手に握っていた、それがいつまで有効か、とまたぼくにたずねた。
Aveva in mano il suo foglio di vita e torno' a chiedermi fino a quando era valido.
「おれは村には帰らねえ」と彼は言う。
- Io non torno al paese, - dice.
「親父に殺されちまうもの」
- Mio padre mi ammazza -.
大きな図体をして、お巡りさんの前に立った子供みたいな話し方をする。彼は首すじの汗をぬぐった。
Cosi grand'e grosso, parlava come se fosse ancora davanti alla guardia, e si asciugo` il sudore del collo.
「親父はまだ腹を立てているだろう。取入れのため、他人に日当を払わねばならなかっただろうから。
- Mio padre non si e' ancora sfogato e per fare il raccolto ha dovuto pagare la giornata a un altro.
刑務所よりも親父のほうが始末が悪いんだ」
Mio padre e' peggio della giustizia.
「せっかく釈放してくれたのに、親父さんはまだ不満なのか?」
- Se ti hanno messo fuori. Non e' ancora contento?
「そうでもないだろうけれど。いっそ親父をつかまえてくれりゃ良いのに、親父なら誰[誰かさん]にでも同じように当り散らすだろう」
- Non vuol dire. L'avessero preso lui, si sfogava lo stesso con qualcuno.
一向に彼が腰を上げようとしないので、ぼくはタバコをとり出した。
Visto che non se ne andava, tirai fuori una sigaretta.
彼はのまなかった。
Tanto lui non fumava.
許可証をたたむと、シャツのポケットに入れ、噴水を見つめた。
Piego il foglio e se lo mise nel taschino della camicia, e guardo' la fontana.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社(*〔 〕内は筆者記す。)

ぼくは腹が減っていた。「家に帰れよ、タリーノ」と、彼に言う。
Io avevo fame. - Torna a casa, Talino, - gli dico.
「ぼくはこのまま歩いて行きたいんだ。
- Vorrei potermene andar io da questi marciapiedi.
こんなところにいたって、おまえはどうしようもないだろう、誰も知らぬ土地なのだから」
Cosa vuoi fare qui, che non conosci nessuno?
すると彼は、門から出たときと同じように、片目をつぶってみせた。怒りがこみあげてきた。
Allora mi guardo' con un occhio solo, come aveva fatto uscendo di la' dentro, e a me veniva la rabbia.
町の人間に対して何をしようというんだ? 間抜け、ぼくは言ってやりたかった、さっさとおまえの牛小屋に帰れ。
Cosa credi di fare, goffo, con la gente civile? Volevo dirgli; ritorna alla tua stalla.
口のききようも知らないおまえなんかと、ひと月も同じ部屋[房]にいてやっただけで、ありがたいと思わないのか?
Non e' abbastanza stare un mese nella cella insieme con te, che non sai neanche parlare?
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*〔 〕内は筆者記す。)

しかしそんなことはおくびにも出さずに、ぼくも噴水を見つめた。
Invece non dissi niente del tutto, e guardai anch'io la fontana.
木陰でも暑さはきびしく、公園に人影はなかった。
Faceva caldo anche sotto le piante e il giardino era vuoto.
その時刻には子守たちも乳母車を家に急がせていた、誰もが食事をする時間だった。
A quell'ora le balie correvano a casa col carrettino, e tutti mangiavano.
「せっかくここまで来たのだから」と彼が言った、「トリーノの町を見ておきたい.……」
- Visto che ci sono, - diceva lui, - voglio vedere Torino...
「おまえだってわかっているだろう? ぼくは失業して、今夜のねぐらもないんだ」ぼくはしびれをきらして怒鳴りつけた。
- Lo sai che sono disoccupato e stasera non so dove dormo? - gli gridai allora in faccia.
ぼくが怒ったことに彼は気づかない、それとも気づかぬふりをしたのか。
Lui non s'accorse che avevo perduto la testa, o almeno, fece finta,
そういうやり方は親父で慣れていたにちがいない。
perche' ci doveva essere abituato con suo padre.
明らかに、見かけほど彼は間抜けではないのだ。
Si vede di qui che non era goffo come sembrava.
ぼくに本音を吐かせたところで、彼は声の調子を変えた。
Adesso che mi aveva fatto di dire la verita`, cambio registro.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

「許可証の通用期間は四日だ。
- Il foglio mi da` quattro giorni di tempo.
それに小麦の刈入れも終ってしまった。
Tanto il grano e` gia` tagliato.
おれたちは脱穀に間に合うように帰りさえすれば良いんだ。
Basta che torniamo per batterlo.
おれはもう少しここにいてみたい。
Voglio fermarmi.
今度はいつモンティチェッロから抜け出せるか、わかりゃしないから」
Chi sa quando scappero` un'altra volta da Monticello.
とうに腹のなかで決めていたんだ。
Aveva gia` il suo piano in mente.
その証拠に《おれたちは》と彼は言った。
Diceva <>.
ぼくは横目で彼をにらんだ。
Lo guardai traverso.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社


「おまえは親父さんに殺されるんじゃないのか?」ぼくはゆっくりと言った。
- Tuo padre non ti vuole ammazzare? - dissi adagio.
「あんたと帰れば、話はちがってくる。
- Se ritorno con te, le cose cambiano.
あんたは脱穀機を動かして、手伝ってくれるだろう。
Potresti lavorare alla macchina da battere, e aiutarci.
あんたは堅いひとだ、口数も少ないし、
Sei uno dritto e parli poco.
親父とはうまがあうだろう。
Andresti d'accordo con mio padre.
ここは住みにくいって、あんたも言ったばかりじゃないか」
L'hai detto tu che qui stai male.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫

ぼくはへまをしないように黙った。すでにしゃべりすぎていたから。
Per non sbagliare stavo zitto: avevo gia` parlato troppo.
刑務所のなかで、あいつの気を引き立ててやろうと、つい口をすべらせてしまった、
In cella gli avevo detto, per tirarlo su,
トリーノの町なかでは枕を高くして眠れないんだ、
che i marciapiedi di Torino mi bruciavano le suole
刑務所を一歩出ればぼくを待ち伏せしている[裁判をうまく切り抜けてもぼくを密告した]やつがいる。
e che se scampavo dal Tribunale c'era qualcuno in liberta` che me l'aveva giurata.
猫みたいに格子戸に鼻づらをこすりつけていた日々のことだった、
Erano i giorni che si sfregava contro uscio come un gatto
目を覚ますと、殴られたあとのように[殴られた]顔が腫れていた。
e si svegliava con la faccia di chi ha preso dei pugni.
あのころ耳にしたかぎりでは、火事は彼の家に起こったような口ぶりだった。
A sentirlo allora, pareva che l'incendio fosse successo in casa sua.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫(*〔 〕内は筆者記す。)

「あれっ? 酒、呑んじゃったの?」
「飲んでないよ」
「底にちっとしかないぞ」
「鍋にいれたんだ」
「なんだ?」
「晩の牛丼、肉、やらかくなったよ」
「出がけに一杯ひっかけたかったんだが。ま、いいか」
まだ見つかっていないモルトを喉に流す。これでビーフストガロフでも作られちゃたまらない。

それがいまは片目をつぶって、ぼくを見すかしている。
E adesso mi guardava con quell'occhio storto,
しばらくは、市電の響きも街路の物音も聞こえなかった。
e per un momento non si sentirono piu' ne' i salti dei tram ne' la strada;
十二時半ごろだった。ポンプのようにほとばしり出る噴水の音だけが聞こえていた。
era quasi la mezza; si senti' solo la fontana, che schizzava come una pompa.
はっきり返事をしないままに、ぼくは彼をつれて食堂に入った。
Senza rispondergli ne' si' ne' no, lo condussi in trattoria.
食事代をもつのはぼくのほうだった、
Toccava a me pagargli il boccone,
ぼくがなけなしの金を看守から引き出しているのを、彼は見て知っていた。
perche' mi aveva visto ritirare dalla guardia le ultime lire:
しかし彼のほうは、逮捕されたときから、間違いようもなく[使おうにも]無一文だった。
e lui invece si era fatto prendere senza un soldo in tasca per non avere tentazioni.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫(*[ ]内は筆者記す。)

食事が終るころには、ぼくも充分にずるくなっていた。
Finito di mangiare la sapevo gia` piu' lunga.
彼は言葉たくみに、裁判所への未払い分があるかどうか、ぼくに口を割らせようとした。
M'incantava di parole per farmi dire se avevo ancora degli arretrati con la giustizia
彼といっしょに行ったほうがぼくのためになる、と並べたてた。
e capire se mi conveniva andare con lui.
なぜ、ぼくのような都会の人間を、しかも前科者[逮捕歴のある者]を、自分の村へ連れていきたがるのか、その理由をぼくは知りたかった。
Io volevo sapere pereche' ci tenesse a portarsi al paese proprio uno gia` scottato e di citta`.
ぼくらは互いに探りを入れあった。
Ci lavorammo tutti e due,
結局、彼にわかったのは、ぼくが腕のたつ自動車修理工で、
e alla fine l'amico sapeva soltanto ch'ero un meccanico in gamba
自転車をはねて身の破滅をまねいた、ということ[だけ]だった。
andato in malora per avere schiacciato un ciclista:
しかしぼくには、彼が自動車修理工を探しているだけではないことは、わかっていた。
ma io sapevo che lui non cercava soltanto un meccanico.
とにかく彼は、自分よりも始末の悪い父親の機嫌を取りたかった、それぐらいが本心だったかもしれない。
Ma poteva anche darsi che fosse davvero per fare un piacere a quel padre piu' goffo di lui.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫(*[ ]内は筆者記す。)

そこで、放火罪に問われただけではまだ不足なのか、とぼくは彼に尋ねてやる。
Allora gli domando se non ne aveva abbastanza di aver rischiato un processo per incendio doloso.
「余所者を入れてどうするのだ?」とぼくが言う。
- Cosa vuoi mescolare le razze, - gli faccio.
「干草に火をつけた嫌疑で中に入れられた人間は、仲間に気をつけねばなるまい」
- Chi va dentro perche' un altro ha dato fuoco a un fienile, deve stare attento a chi gli da del tu.
「しかしあんたは何も悪いことをしなかったから、釈放されたんだろう?」
- Ma non ti hanno messo fuori perche' non avevi fatto niente? -
牡牛のような目で彼はぼくに尋ねる。
mi chiede, coi suoi occhi da bue.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫

で、この食堂じゃないところにいる人に会いたいんだ、とぼくは言ってやった。
Allora gli dissi che avevo da vedere qualcuno che non stava in trattoria,
すると彼は急いでコップを飲みほし、荷物を掴んだ。
e lui vuoto` il bicchiere e prese il fagotto.
待っていろ、と言うには及ばなかった。どうせぼくの言葉を信じやしないだろう。
Non valeva la pena di dirgli di aspettarmi, perche' non mi avrebbe creduto.
しかし、つきまとわれるのは、もうたくさんだ。
Ma portarmelo dietro non me la sentivo.
「タリーノ」とぼくは言う、「ぼくはまだ決心がつかないんだ。
- Talino, - gli faccio, - non sono ancora deciso.
おまえは駅に行って、汽車に乗れ。
Va' alla stazione e prendi il treno.
ぼくはあとがどうなったか見ておきたいんだ、
Io vedro` come stanno le cose
二、三日うちに、モンティチェッロに着くぐらい、何でもないことだ」
e niente di piu' facile che uno di questi giorni ca`piti a Monticello -.
彼は一文無しだから、ぼくの申し出を受けいれざるをえなかった。
Non aveva un soldo e doveva accettare.
「そんな話は、信用できない」彼はきっぱりと言う。「いっしょに村へ着かなければ。
- Non mi fido, - dice lui convinto. - Bisogna che arriviamo insieme.
あんた、トリーノにいたって、もう誰も助けてくれないんだろう。
Se ti fermi a Torino piu' nessuno ti toglie.
それよりも、すぐに出かけよう。今夜のうちにも農場で寝られるんだ」
Piutosto, guarda, partiamo subito. Stasera dormi gia` alla cascina.
田舎者は酔っぱらいに似ている。言わせておけばきりがない。
Uno di campagna e` come un ubriaco. E` troppo stupido per lasciarsela fare.
そのまま彼を戸口に残し、少しばかりの食事代はあきらめて、立ち去りたいくらいだった。
Avevo voglia di piantarlo sulla porta e dire addio ai quattro soldi di quel pranzo.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫

彼が言う。「女の子ならば、これから先、いくらでも逢えるんだ」
Lui mi fa: - Non manchera` l'occasione di vedere le ragazze un'altra volta.
焼けつくような太陽の下にぼくらは立ちつくしていた。
Eravamo fermi sotto il sole che picchiava,
髪もひげも彼は伸び放題だった。
lui col suo cappellone e una barba di sei giorni.
その顔で女の子に逢いたいと言うのか?
Con quella faccia voleva vedere le ragazze?
「おい」とぼくは言う、「おまえ、女の子に逢いたいのならば、
- Senti, -gli dico, - se sono le ragazze che ti fanno gola,
良い場所に連れていってやるぞ、遊ぶ金も貸してやる。
ti porto al buon indirizzo e ti lascio i soldi per divertirti.
ぼくは落着いて考えてみたいのだ。
Voglio soltanto pensarci sopra.
これでもう九リラ五〇おまえに貸したのだから、
Cosi' mi costi gia` nove e cinquanta
ぼくが戻ってこないわけはないだろう」
e sei sicuro che ritorno.
「じゃ、今夜、いっしょに発つか?」
- E questa sera andiamo via?
「それはそのときの話だ」
- Si vedra`.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

アンジェラ夫人の門の下に彼を残して、 
Lo lasciai sotto il portone di Madama Angela,
夕方七時に駅で会う約束をした。
dandogli appuntamento alla stazione per le sette di sera.
彼はあたりを見回しながら、おとなしくぼくの話を聞いていた。
Mi ascoltava guardandosi attorno,
そして商人のような手つきで金を受取ると、
e prese i sordi come un negoziante,
洟をすすりあげた。
tirando su per il naso,
それから、いっぱい食わされたというふうに、ひげの下で顔を染めた。
rosso sotto la barba, come uno gia` minchionato.
ぼくは彼のひげのことには触れなかった、その分まで払わされてはたまらなかったから。
Non dissi niente della barba, per non dovergliela pagare.
けれどもあの顔は優に五リラの値はあった。
Ma la faccia che faceva valeva piu' di cinque lire.
「おまえ、やり方を知っているのか?」
- Lo sai come si fa?
「おれだって兵隊に行ったことがあるんだ」
- Sono stato soldato.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫

彼はほかの男たちに混って入っていった。
Entro` con degli altri.
ようやくひとりになれて、ぼくはゆっくりと歩いた。
Adesso ch'ero solo, camminavo piu' calmo.
大通りを歩きながら、タバコをふかしては、考えにふけった。
Feci il corso pensandoci sopra e fumando:
その日、初めて味わうタバコだった。
era la prima sigaretta che mi godevo nella giornata.
タリーノみたいな人間はぶどう畑でズボンをまくり上げているのが似合いの図だ、
Gente come Talino stava bene in una vigna a tirarsi su i calzoni,
とてもぼくなどと同じ道を歩く柄ではない。
ma non per le mie strade.
あいつは監獄のなかでさえ、暮し方を知らなかった。
Non sapeva neanche vivere in una cella.
あの金は惜しかったが、二度とあわずにすむなら、あきらめるしかあるまい。
Pazienza quei soldi, ma non l'avrei veduto piu'.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社
たとえば劈頭以来、すでに三度出てきたpensarci sopraにしても、頂庵氏は「身の振り方を決めたかった」「落着いて考えて」「 考えにふけった 」と三通りに訳されている。また出れば、また幾通りにも訳されることだろう。文脈の中に身をおいて最適の表現を掴み取る。本人は大したことではない、当然のこと、と仰るかも知れないが、これは翻訳といえども[翻訳だからこそ]おのれの文章を書くという覚悟がなければ出来ることではない。だからこそ氏の訳業は私にとっては何時までも汲めども尽きぬ宝庫なのだろう。

カフェではぼくが来ると誰も予期していなかった、
Al caffe` non mi aspettavano,
ぼくは笑いながら姿を現わしただろう、
e mi vedono arrivare che rido,
なぜならタリーノが、マダーマ・アンジェラの前にいる恰好を頭に浮かべていたからだ。
perche' mi figuravo Talino davanti a Madama Angela.
ぼくはまた一本タバコに火をつけて、ビリアードに入って行く、
Accendo un altra sigaretta e vado al biliardo
ニコーラ、ダミアーノ、それに点をつけていた彼の弟がいた。
dove trovo Nicola, Damiano e suo fratello, che segnava i punti.
彼らは突き棒もおかずに、ぼくに言う「誰かと思ったら」
Non posano neanche le stecche e mi dicono: - Guardalo qua -.
ぼくはなぜか笑い出していた。
Non so perche', mi scappava da ridere,
すると負けていたダミアーノがぼくに言う。「笑いたければ、後を向いてくれ」
e Damiano che perdeva mi dice: - Vo`ltati, se vuoi ridere -.
ぼくの後には鏡があった、しかしぼくは振り向かない。
Dietro avevo lo specchio, ma non mi voltai.
逆に、彼に言ってやる。「きみは振り向く必要がないだろう。
Gli dico invece: - Tu non hai bisogno di voltarti.
前も後も馬鹿だから」
Sei stupido davanti e di dietro -:
するとニコーラがぼくに言う。「だけど、刑務所にいたんじゃなかったのか?」
e Nicola mi dice: - Ma non eri in prigione?
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

「ピエレットを捜しにきたんだ」ぼくは落着いた声で言う。
-Venivo a cercare Pieretto, - dico allora tranquillo;
「青シャツに白ネクタイの、背の高い男だ。あれから見かけなかったか?」
- quello alto con la camicia bleu e la cravatta bianca. Non si e` piu' visto?
誰も思い出さなかった。
Non se lo ricordavano neanche.
ただ、一番年下のダミアーノの弟が、
Solo il fratello di Damiano, ch'e` il piu' giovane,
いつも金髪の女といっしょにいたやつじゃないか、とぼくにたずねた。
mi domando` se aveva insieme una bionda.
「そうだ」それなら、あれから見かけない。
- Sicuro -. Allora non l'aveva piu' visto.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

夏帽子
アイスノン入れ
涼しくも
今日も行くなり
照り殺し道
エリサ
ニコーラが言う「現場をおさえられたのか?」「現場って?」ニコーラはそれ以上言わない、
Nicola dice: - Vi hanno presi sul lavoro? - Che lavoro? - Nicola resta li',
しかしお人好しのダミアーノは口に出してから赤くなった。
e Damiano ch'e` un bonuomo, mi fa e diventa rosso:
「夜の仕事だよ……きみは、抜け目のないやつとぐるになったそうじゃないか……」
- Lavoro notturno... Dicono che ti sei messo in societa` con uno sveglio...
「ミラーノで免許をとったから、身をかためるつもりだ[身をかためるかも]」
- Ho fatto un collaudo a Milano, e forse mi sistemo,
ぼくは相手の言葉をさえぎった。
- tagliai corto.
「きみの姉さんも、まだ結婚していないそうだな。どうなんだい?」
- La gente dice anche che tua sorella non e` sposata. E con questo?
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)

それからぼくは小走りに家へ向う、もう考えることはほとんどなかった。
Poi corro a casa, perche' c'era poco da pensarci sopra.
B夫人が部屋着のまま戸口に出てきた、
Madama B. venne alla porta in vestaglia
彼女は一歩あとずさって、すぐに大声をたてた。
e diede un passo indietro e comincio` subito a gridare.
彼女を落着かせるために、ぼくは黙っている。が、やがて彼女に言う。
Per calmarla sto zitto e poi le dico: -
「ぼくは支払いにきたんです」
Sono venuto per pagare -.
なかに入ると、彼女はすぐに泣きはじめた。
Una volta dentro, ecco che si mette a piangere.
そして言った。恐ろしい夜だった!
Diceva: ma che terribile notte!
あれから、ピエレットの姿も見かけない。
Diceva che Pieretto non l'aveva piu' visto.
そしてぼくが良い人だったとか、
Diceva ch'io ero una brava persona
自分にも息子がいたとか、
e che lei a suo tempo aveva fatto un figliolo
しかしいまではぼくら若い者が彼女を台無し[ぼろぼろ]にしてしまう、などと言った。
ma adesso l'avevamo stancata.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)

ここまで読み進むと、これはパヴェーゼ逮捕前後の情況を克明に記したのではあるまいかと思えてくる。何か、髣髴とさせるものがある。むろん、小説化するに当って人物や細部を巧みに入れ換えているのではあるが…… 金髪の女が持ち去ったのは下着などだけではあるまい。現場をおさえられた、というのは反政府印刷物の所持で現行犯逮捕されたことか。夜の仕事って、地下活動のこと? ここに登場するピエレットは友人かもしれないが、裏切り者、密告者の匂いがする。作家パヴェーゼにはそうする理由があったのだ。何かを預かっただけの彼は逮捕され、預けた彼女は自分の流刑中に共通の友人と結婚してしまっていた。むろん、読み解くキーはそれだけではないし、そういうことにあまり重きを置くのは、あまり感心しないけれども、ぼくだったら書込むに際してそういう意図も、必ずや作品のどこかに潜ませておいたことだろう。彼と彼女だけにわかるように、……洗練された、上品な復讐。

「へーえ、彼女が共通の友人と結婚、ねえ」
「そしてその媒酌人が恩師アウグスト・モンティだったら?」
「流刑帰りのパヴェーゼにとっては青天の霹靂、最大の痛撃だ」
「でも、そんな、映画のシナリオみたいなことが?」
「だけど、事実は小説よりも奇なり、とも言うし」
「ほんと?」
「さあ?」

やはり知っていることもあった。
Eppure qualcosa sapeva,
あの金髪がきたことを認めた。
perche' ammetteva ch'era venuta quella bionda,
彼女は唇をゆがめて、ピエレットとぼくのシャツを持ち去ったという。
che aveva storto la bocca e portato via le camicie di Pieretto e le mie. -
「じゃ、払いはもう済んだのですね?」
Allora, e` gia` pagato? -
ここで彼女は話をやめ、自分の部屋に走って行き、包みを持ってくる[きた]。
Qui si fermo` e corse nella sua stanza e torno` con un pacchetto.
それからまた大声をたてた。
Gridava di nuovo.
ぼくの荷物が残っていた、最後のひと月分は未払いだった、下着類は金髪が間違えて持っていってしまった。
C'era la mia roba, l'ultimo mese non era pagato: le mie camicie le aveva prese la bionda per sbaglio.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)

そのうちにピエレットを見た、と口をすべらす。
Intanto si lascia scappare che Pieretto l'aveva veduto.
彼はぼくよりも前に通り[路上]で逮捕されたのだ。
L'avevano preso per strada prima ancora di me.
B婦人は興奮すると、
Madama B. torno` a scaldarsi
その翌日彼を見た、とさらに口をすべらす。
e mi racconto` che l'aveva visto il giorno dopo,
やつらは彼を連れて家宅捜査に来たのだか、
perche' erano venuti con lui a perquisire un'altra volta,
いくらベッドをひっくり返しても盗品なんぞ見つかりはしなかった、あんな百姓たち。
e non avevano trovato refurtiva neanche in fondo ai letti, villanzoni.
ピエレットは帽子を目深にかぶって、ぼくと同じように、出口のそばに寄りかかっていた。
Pieretto stava appoggiato come me, vicino all'uscio, col cappello sugli occhi
誰も彼には話しかけられなかった。
e non si poteva parlargli.
警察の連中より、彼のほうがずっと恐かった。
Le aveva fatto piu' paura lui che i questurini.
家じゅう台無しにされてしまった。
Tutta la casa le avevano disfatto.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)

「盗品って?」ぼくが言う。
- Che refurtiva? - dico io.
彼女は知らなかった、何も知らなかった、もう二度と誰にもあいたくなかった。
Non lo sapeva, non lo sapeva, non voleva piu' vedere nessuno.
部屋は軍人さん[軍曹]に貸してしまった、
La stanza l'aveva gia' data a un sergente,
ふつうのお勤め人はもうこりごりだ、たとえぼくだって[まっぴらだ]。
borghesi non ne voleva piu', neanche me.
彼女に一〇リラ置き、荷物を持って、ぼくは立ち去った。
Le lasciai dieci lire e me ne andai col pacchetto.
ミケーラはエリゼーオで働いていたが、ちょうど出たあとだった。
Michela lavorava all'Eliseo, ma era gia' uscita.
日が落ちても暑さは衰えなかった。
Veniva sera e faceva sempre piu' caldo.
アスファルトがぼくの足[の裏]を噛んだ。
L'asfalto mi mangiava i piedi:
刑務所のなかの方がましだった、
si stava meglio in prigione.
ぼくはベンチに腰をかけた、するとタリーノのことが頭に浮かんできた。
Mi siedo sopra una panca e mi torna in mente Talino.
いまではぼくも彼と同じように荷物をかかえていた。
Ora avevo il fagotto come lui:
そのころ彼はどこにいただろう?
chi sa dov'era in quel momento?
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)

七時近くにミケーレはミルク売り場にいるはずだ。
Verso le sette Michela te la trovo in latteria:
奇妙なことに彼女はひとりだった、そしてもう金髪ではなかった。
caso strano era sola, e non era piu' bionda.
ガラス越しにぼくを認めると、飛び上がって驚いたので、ぼくの疑念は消えた。
A vedermi dal vetro fece un salto che mi tolse le illusioni:
ピエレットはまだ刑務所のなかなのだ。
Pieretto era ancora in prigione.
そのことをぼくが顎でたずねると、ミケーラがうなずいてみせる。
Glielo chiedo col mento e Michela fa di si'.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社

それなら腰をおろして食事をしても良かった。
Tanto valeva sedermi e cenare.
初めのうち、ミケーラは未亡人みたいに不機嫌な顔をしていた、
Sulle prime Michela fece un muso da vedova
そしてピエレットに会ったかとぼくにたずねた。
e s'informava se avevo veduto Pieretto.
やがて、その不機嫌さが彼に対するものだということをぼくにわからせた。
Poi mi lascio` capire che il muso l'aveva con lui,
誰にも何も言わずに、他人を巻き添えにする[厄介事に首を突っ込む]なんて。
che senza dir niente con nessuno s'era messo nei pasticci.
あの晩の襲撃にぼくが加担したものと彼女は思いこんでいた、
Credeva che io lo avessi aiutato quella notte a fare il colpo,
それで彼女を納得させるために
e quando per convincerla dico:
「だって、現にぼくは釈放されたんだぜ」
- Tant'e vero che mi hanno messo fuori, -
と言うと、彼女は目を大きく見開いて[ウィンクして]、前かがみになり、ぼくの腕を握る。
strizza l'occhio, piega la testa e mi prende un braccio.
「それなら、自業自得じゃない、あのばか、
- Allora gli sta bene, a quello stupido,
無関係なお友だちまで巻添えにし[友人たちをゆえなく投獄させ]たりして」
che fa andar dentro per niente gli amici -.
これが女だ、あの男に養われてきたくせに。
Queste sono le donne, e lui la manteneva.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)

「きみのところにも、やつらは来たかい?」と彼女にたずねる。
- Da te sono venuti? - le chiedo.
「その必要はなかったわ、現場をおさえられたんですもの」
- Non ce n'era bisogno perche' l'hanno preso sul posto -.
彼女がテーブルの上に身をかがめると、においが鼻をつく。
Si piego` sul tavolino, tanto che sentii l'odore che aveva.
「まだ手を触れないうちに、ショーウィンドオの前でつかまっちゃったのよ…                 
- L'hanno preso davanti alla vetrina che non aveva neanche toccata...
あなたは運が良かったわ」と、ぼくを見ながら言う。
Sei fortunato tu, - dice guardandomi.
「ぼくは一介の機械修理工にすぎないから、
- Io sono soltanto un meccanico,
工場の外に出れば何もできないんだ」
e fuoi dell'officina non so far niente.
「あなたはいろいろなことができるわ」そう言って、彼女はぼくの背から手を離さなかった、
- Sai fare molte cose, - diceva lei, senza levarmi la mano di dosso,
「誰よりも上手に逃げるわ」
- sai cavartela meglio d'un altro.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社

この一か月、彼女が男に逢っていないことは明らかだった。
Si vede che in tutto quel mese non aveva trovato nessuno:
彼女の目つきからも、しばらく染め返していない赤い髪の毛からも、それはうかがえた。
si vedeva dagli occhi e da quel rosso dei capelli non piu' ripassati.
ようやく、なぜ彼女がシャツを取りにきたのか、わかった。
E adesso capivo perche' aveva ritirato le camicie:
先に出たほうが彼女のところへ駆けつける寸法なのだ。
cosi' il primo che usciva correva da lei.
「娑婆に出て見る女の夏着姿は、目に沁みるなあ」と、ぼくは彼女に真正面から言う。
- Fa effetto uscire e vedere le donne vestite da estate, le dico in faccia.
「彼女はそれを受けとめて、笑いながら尋ね返す。「今夜は、どこで眠るつもり?」
Lei ride sicura del colpo, e mi chiede: - Dove dormi stanotte?
「今夜は眠らないんだ」じっと彼女の顔を見つめて、ぼくは言う。
- Stanotte non dormo, - dico guardandola.
彼女は腕を放して、目を見開いた。悧巧にふるまっているつもりなのだ。
Mi lascio` il braccio e allargo` gli occhi. Credeva di fare la furba.
こういう女は、タリーノに向いている。
Talino, ci vuole per loro.
「よし」しばらくして立ちあがりながら、ぼくは彼女に言う。
- Va bene, - le dico poi, mentre ci alziamo.
「じゃ、シャツをもらいにいくからね」
- Allora vengo a prendere le camicie.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫

道みち――日はすでに落ちていた――タリーノをどういうふうにまいてきたか、ぼくは彼女に話してきかせた。
Per strada ? era gia`sera ? le raccontai come avevo imbarcato Talino.
彼女はぼくの腕に腕をからませて、声をたてて笑った。
Lei mi teneva a braccetto e rideva
そしてぼくのひげが伸びていることを、恥ずかしがらなかった。
e non si vergognava della barba che avevo.
階段を昇りながら、最初に逢いにきた女が自分か、と彼女はぼくに尋ねる。
Su per le scale mi chiede se era lei la prima donna che venivo a trovare.
そしてぼくに言う。「ピエレットが知ったら、何て言うかしら!」
E mi fa: - Cosa direbbe Pieretto se lo sapesse! -
ぼくは心の中で答える、きみは相変らずの女だ、と言うだろう。
Direbbe che sei sempre la stessa, penso io.
―― Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫
たとえば、このパラグラフ最終行最後の二語, penso io.は「……とぼくは思う。」が直訳だろうけれども、当然ながら、ここはやはり「ぼくは心の中で答える、………、と言うだろう。」でなければならない。

上にあがって、台所でひげを剃りながら、ぼくはミケーラと話しあった。
Di sopra, mi feci la barba in cucina, parlando con Michela
彼女は寝室のなかを往ったり来たりしていた。
che andava e veniva nella stanza da letto.
そこも耐えがたい暑さだった。
Si soffocava anche lassu'.
台所は猫の巣だった、壁にピエレットの上衣がかかっていた、
La cucina era un buco da gatti, c'era una giacca di Pieretto al muro,
彼と知りあったころぼくは彼と彼女が結婚しているものと思いこんでいた。
e io pensavo che quando lo avevo conosciuto credevo che la sua ragazza l'avesse sposata.
寝室で彼女はベッドの上に横たわり、いかにもくつろいで、タバコをふかしていた。
Nella stanza lei era distesa sul letto e fumava, in liberta`.
ぼくに見られるとすぐに、彼女は明りを消した。
L'avevo appena vista, che spense la luce.
それでもまだ、ぼくに言っていた。「もしも ピエレットが知ったら !……」
Ebbe ancora il coraggio di dirmi: - Se Pieretto sapesse!...
もしも ピエレットが知ったら、きみよりもぼくを哀れむだろう。
Se Pieretto sapesse gli rincrescerebbe piu' per me che per te,
何もかも刑務所のせいだったから。
perche' tutta la colpa era della prigione;
友だちを裏切っても、女だけは刑務所に行かなくてすむのだから。[女だけは刑務所に行かなくてさえ、友だちを裏切れるのだから。]
e soltanto le donne non hanno bisogno di andare in prigione per tradire un amico.
―― Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫(*[ ]内は筆者記す。)
この最後の一行だけは、頂庵氏の誤訳だろう。いかに氏の訳が滑らかでも、この一行だけは譲れない。そういう箇所が常日頃敬愛する師の訳業にもたまさかあるものだ。そんな箇所だけ見つけては、さも鬼の首を取ったかのように言う、小面憎い弟子だったに違いないよ、このぼくは!

つまらぬ話はさせないように、ぼくは彼女が眠るのを待った。
Per non far storie aspettai che dormisse,
それからシャツをまとめて、その場を去った。
poi raccolsi le camicie e me ne andai.
なぜ翌朝までとどまらなかったのか、ぼくにもわからない。
Non so perche' non rimasi fino all'indomani mattina,
しかしあの匂いは耐えがたかった、それにあそこは暑すぎた。
ma mi rivoltava anche l'odore e poi faceva troppo caldo.
ぼくは外へ出る、そして自分でも気づかぬうちに、
Esco e, senza accorgermene,
獣のように疲れた身体を駅のほうへ歩ませてゆく。ぼくはベンチを探していた。
stanco come bestia vado verso stazione, per trovare una panca,
ポケットには四〇リラぐらいしかなかった、しかしもう何もすることはなかった。
Avevo in tasca un quaranta lire, e piu` niente da fare.
公園で つくづくとわが身を顧みた 。
Ci pensai sopra nel giardino
ピエレットがいなければ、自分はまぎれもない失業者だった。
e capivo che senza Pieretto ero proprio disoccupato.
人通りはほとんどなかった、時刻はすでに夜半に達していた。
Gente ne passava poca, era gia` mezzanotte
が、ミケーラのところでまどろんだせいもあって、もう眠くはなかった。
e non avevo piu' sonno perche' da Michela mi ero assopito un poco.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

ほら、ここではCi pensai sopraは「つくづくとわが身を顧みた」だ。

おかんとおとんの話は読めば、まあ面白い。ベストセラーってのは、コロンブスの卵だね、こつんと凹ませときゃ、誰でも立たせられるけど、思いつくまでが至難の業だ、誰にでも書けるもんじゃねえ、素直に読んで、程度に見合う分だけ素直に感動しておくべき代物だ。

タリーノはどうしていることか。七時の汽車で発っただろうか?
Chi sa Talino. Era partito alle sette?
いや、という声がして、ぼくは跳び起きる。
Una voce mi dice di no e mi fa saltar su.
出かけるか、出かけるまいか。金はいくらもかからないだろう。
Vado o non vado. Costa poco.
タリーノは出札所の手すりのあいだで、荷物ごと床にすわっていた。
Talino era seduto per terra, fra le ringhiere dei biglietti, col fagotto e tutto.
その姿を見ると、中へ舞い戻ったような気がした。
A vederlo, mi pareva di tornare dentro.
彼は再び呼び出しを受けた男の顔をして、汗をぬぐいながら、
Si asciugava il sudore, con una faccia da richiamato,
パンとチーズのかたまりに食らいついていた。
e mordeva in un pezzo di pane e formaggio.
どこで金をくすねたのか[どこへ縫いこんだものか、金は隠しもっていた]、
Dunque aveva dei soldi cuciti da qualche parte;
ぼくも、警察も、刑務所も、みながいっぱい食わされていたのだ。
e ci aveva presi in mezzo tutti quanti, me, la questura e le carceri.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫(*[ ]内は筆者記す。)

彼はぼくの姿を見ると、片手を床について、あわてずに立ちあがった。
Quando mi vide, si alzo` senza fretta, poggiando la mano per terra,
そして歩いているように両手を左右に振った。
e comincio` a traballare come faceva lui camminando.
「行くかい?」口をいっぱいにしたまま、彼が言う。
- Si parte? - mi dice con la bocca piena.
「待てよ。おまえは金を持っているじゃないか。
- Momento. Tu hai dei soldi.
おまえのところの機械をみてやったら、ぼくにいくら払う?」
Che paga mi date se vi guardo le macchine?
「食べるものと眠る場所。
- Da mangiare e da dormire.
電気会社で勝手に働いてくれてもいい。
Puoi lavorare per tuo conto nella fabbrica della luce,
あんたの好きなだけ稼げるだろう。
e guadagni quello che vuoi.
そうやって、家を買ったやつさえいる……」
C'e` uno che si e` comprato una casa...
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

夏帽子
保冷剤秘め
また涼し                  碧

この句を聞いた男が保冷剤内蔵帽子の特許申請をして製品化、初年度で一〇億稼いだ。男はあたしを探し当て、謝礼一億を持って現れた。あたしはその場で半金をつれあいに押しつけた。
「負けも勝ちも山分けだろうが、ん?」

照り殺し
白日夢なれ
蜃気楼                   竜次

だが、出発には夜明けを待った。
Ma per partire aspettammo il mattino
モンティチェッロは寒村だから夜中に汽車が停まらない。
perche Monticello e` un paese di scarto che di notte non passano i treni.
ぼくは待ちながら思った、
Aspettando pensavo che,
あのときピエレットの上衣の上にぼくの上衣をかけてしまったならば、
se avessi attaccata la giacca sopra quella di Pieretto,
ぼくらが鏡を見れば似合いのふたりであるとか、
sarebbe subito finito il discorso che a guardandoci nello specchio sembravamo fatti uno per altro
彼女が以前からぼくを好きだったとか、そういうくだらぬ話はしなくてすんだであろうに。
e che lei mi aveva sempre voluto;
いや、それどころか、ぼくらがなぶりものにしていた友人にぼくも彼女も値しないと言って、
e invece avrebbe detto che non valevamo, ne' lei ne' io, l'amico che prendevamo in giro,
彼女がぼくを責めることも、ぼくとピエレットを対決させることも、できたであろうに。
e mi avrebbe tormentato e messo su contro Pieretto.
あんな女は独りで目を覚ますがいい、
Meglio che si svegliasse sola
少しはつらい思いをさせてやれ、
e facesse un po' di magro,
ピエレットのやり方にならって。
come faceva Pieretto.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

汽車に乗りこむと、すぐに夜明けが来た。
Una volta sul treno, venne subito giorno
そして汽車は、きっと、
e partimmo proprio nel momento, scommetto,
ミケーラがベッドのなかで寝返りをうった瞬間に、動きだしたにちがいない。
che Michela si girava sotto il lenzuolo.
タリーノはハンカチを斜めにかぶり、荷物を枕にして、眠る用意を整えた。
Talino si era messo a dormire, con la testa sul fagotto e il fazzoletto per traverso,
そしてぼくを騙したことをまだ笑っているかのように、片目をつぶってみせた。
e mi strizzava l'occhio come se ridesse ancora per avermela fatta.
足りないのは蝿だけだった。
Mancavano solo le mosche
仔牛と藁の臭気がたちこめ、家畜小舎にいるのと同じだった。
e poi c'era la stalla, l'odore di stalla e il vitello.
あいつは仔牛そっくりだ。
Lui sembrava il vitello,
しかしぼくはときどき思った、仔牛は二頭いるのではないか。
ma dei momenti pensavo che ce ne fossero due.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

火野葦平の『青春と泥濘』は『麦と兵隊』よりも遙かに上等な作品だよ。モンポウを聴きながらほんとにそう思う。

涼しい風が流れるのは素晴らしかった、
Una bella cosa era il fresco
それにぼくらふたりしか乗っていなかった、
e che viaggiavamo soli,
そしてぼくは心ゆくまでタバコを吸った。
e mi sfogavo a fumare.
バンディートで人が乗ってきた、
A Bandito saliva gente,
けれどもブラの市場へ行く田舎の人たちばかりだった。
ma erano di campagna e andavano al mercato di Bra.
タリーノは大きなふたつの目であたりを睨みつけていた。
Talino se li guardava con tutti due gli occhi,
ぼくは話しかけられるたびに答えた。「こいつと話してやってくれ」
e quando fanno per attaccare discorso con me, dico: - Parlate con lui.
――Cesare Pavese <> Einaudi 河島英昭訳『故郷』岩波文庫

乗り換えのため、ブラで汽車を降りた。
A Bra scendiamo per cambiare
一時間ぐらいは待たねばならなかった。
e c'era da aspettare quasi un'ora.
「また公園にすわりこむつもりじゃないだろうな[あるまいな]」と言ってやる。
- Non vorrai mica sederti nel giardino, -gli faccio; -
「ぼくはもう公園はたくさんだぜ」
sono stufo di giardini -.
しかしタリーノは三リラを取り出して、
Ma Talino tira fuori tre lire
ぼくにもらった五リラの残りだと言う。
e mi dice che erano le mie cinque,
トリーノではうまくいかなかったが、
che a Torino non aveva trovato il fatto suo
ブラでは良い場所を知っている、
e che sapeva un posto a Bra
二リラ五〇[も]あれば足りるはずだ。
dove bastava due e cinquanta.
「ほんとうか?」とぼくが言う。「南瓜みたいな女だろう」
- Possibile? - dico. - Sara` robetta di campagna.
「とんでもねえ!」タリーノが言う。「真白で可愛い娘ばかりだぜ」
- Macche'! - dice Talino. - Sono bianche ch'e` un piacere.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫(*[ ]内は筆者記す。)

だが、ぼくは広場のカッフェに残った。
Ma io mi fermai nel caffe` sulla piazza
「ありがたいと思えよ、その金を返せって言われないのを。早く行ってこい」
- Ringurazia che non mi faccio dare indietro questi soldi. E fa' presto - .
カッフェに入ると、まだトリーノにいるみたいだ。だからこそぼくは好きなのだ。
In un caffe` pare di essere ancora a Torino: per questo mi piace.
いまになってようやくぼくにはわかった、
Adesso capivo
なぜタリーノが眠ったふりをしたのか、
perche' Talino aveva fatto finta di dormire,
初めは駅の待合室で、それから汽車のなかで。
prima nella sala e poi sul treno:

そうか、アンジェラ夫人のところでは折合いがつかなかった、とぼくに言いたくなかったのだ。
per non dovermi raccontare com'era andata con Madama Angela.
少なくとも、田舎者だからなどという言い訳では、
A meno che, con la storia ch'era di campagna,
ああいう場所の女たちをまるめこむわけにはいかない。
non l'avesse fatta anche a loro.
彼の話をしたとき、ミケーラは鼻の先で笑っていた。
Michela, che rideva sotto i baffi quando gliel'avevo raccontata,
あれが女なのだ、女はずっとずるいのだ。
era una donna e la sapeva piu' lunga.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

教室では生徒は「ミケーラはひげの下で笑っていた」と訳す。
すると先生は、「なるほど、イタリアでは女もひげを生やしてますからね」とお笑いになる。女よりもずっとずるいのだ、先生は。それとも、生徒がばかなのか? 早や、三十年も昔のことだけど。

「ねえ」とカウンターの金髪娘に、ぼくは言う。
- Ecco, - dico a una bionda al banco.
「女に逢いにいった友だちを待っているのだけれど、どこか静かな場所を知らない?」
- C'e` un posto tranquillo per aspettare un amico ch'e` andato a far l'amore?
カウンターのかげにドアがひとつあった、
Dietro il banco c'era una porta,
その奥から会計係らしい男が娘の脚をじっと見つめていた。
e di la` un giovanotto che sembrava un ragioniere le guardava le gambe.
「あのなかに入ってもいいの?」ぼくは彼女に言う。
- Si puo` andare a mettersi li' ? le faccio.
奥から玉突きの音が聞こえてきた。
Intanto si senti' una botta rinterzata.
モンティチェッロにビリヤードがあるかどうか、タリーノに訊くのを忘れていた。
Non avevo pensato di chiedere a Talino se a Monticello c'era il biliardo.
「汽車に乗るか、玉突きをするか、それともきれいな娘さんとお話をするか?」とぼくは彼女に話しかける。
- Devo prendere il treno o giocare al biliardo o discorrere con una bella ragazza? - le dico.
「ふたついっしょにできるわ」そう答えて、金髪の女がぼくに微笑みかける。
- Si puo` fare l'uno e l'altro, - mi risponde la bionda, e mi guarda ridendo.
「汽車に乗ったら、あとは選べないじゃないか」
- Se prendo il treno, perdo il resto.
「ビリヤードはどこにでもあるわ」
- Di biliardi ce n'e` dappertutto.
「だけれど金髪の娘さんは、そうはいかない。ぼくはこれから、女たちが畑の土を起こしている田舎へ行くんだ……」
- Ma non di bionde. Vado in paese dove le donne zappano l'orto...
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

奥から下を見つめていた男が、ひとりで笑いだす。
L'amico che guardava la` sotto, comincia a ridere per suo conto.
それでぼくは娘に言う。「ここいらでは、脚が物笑いの種になるのかい?」
Allora dico alla ragazza: - Qui le gambe fanno ridere?
彼女はまだわかっていなかった。が、ぼくらはとうから睨みあっていた。
- Lei non l'aveva ancora capita, che gia` con altro ci guardavamo.
ビリヤードで勝負をつけることに話が決まった、
Combinammo una sfida al biliardo
ぼくは有り金をぜんぶ賭けた、
e ci giocai tutto quello che avevo.
娘はしばらくドアから覗いていたが、
La ragazza guardo` un momento dalla porta,
そのうちに仕事に呼び出されていった。
poi la chiamarono a servire,
勝負は彼女のいないあいだにけりがついた。
e finimmo la partita che lei neanche assisteva.
会計係らしいの男は、絶えず薄ら笑いを浮かべながら、
Sempre ridendo sotto i baffi, quel giovanotto che sembrava un ragioniere
最初の二試合をぼくから叩き出した、
mi suono` le due prime,
そして次にはぼくが勝ち返したが、結局それも先方の勝ちに終った。
poi mi diede la buona e mi fece anche quella.
そこで時間を尋ねると、汽車はもう出たあとだった。
Poi chiedo l'ora e sento che il treno e` gia` partito.
――Cesare Pavese <> Einaudi河島英昭訳『故郷』岩波文庫

四度目の免停! よっぽど丸の内署に火炎瓶でも投込んでやろうかと思ったが、大義にではなく、私憤に発する行動は、心の中でさえどうも折合いがつけにくい。いまさら、高校時代の英雄、クラスメイトの真似でもあるまいし……

タリーノはのんびりと駅で待っていた。
Talino aspettava pacifico nella stazione.
「どうだった今度は?」「あんたも、くれば良かったのに」
- E adesso? - Dovevi venire con me, ti divertivi.
つぎの汽車は午後四時発だった。  
Il treno dopo partiva alle quattro.
市の牛みたいに、あの広場で半日をつぶさねばならなかった。
C'era da fare il mezzogiorno in quella piazza, come i buoi sul mercato,
おまけに蠅も飛ばぬ[打殺す]暑さだった。
e faceva caldo che ammazzava anche le mosche.
ぼくの知っている唯一の場所にも、もう帰るわけにはいかなかった。
L'unico posto che sapevo non potevo piu' tornarci,
タリーノがぼくに言う。「散歩に行こう」
e Talino mi dice: - Andiamo a fare un giro.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)

アーケードの前に店をひろげている市場へ、タリーノはぼくを連れていった。
Talino mi porto` sul mercato, che era disteso davanti al portici;
彼は日向のなかを歩いて商品を見てまわった。
e lui camminava al sole per vedere la merce;
ぼくは駅に荷物を置いてきたから、手ぶらで日陰を拾い歩いた。
io senza fagotto, perche l'avevo lasciato alla stazione, mi tenevo al riparo,
そっと数えてみると、あと二日分のタバコ代は残っていた。
e fatti i conti di nascosto, trovai che avevo ancora da fumare per due giorni.
真赤なピーマンを女たちが売っている、なんてきれいなのだろう!
Ma che bei peperoni rossi vendevano le donne!
西瓜売り場もあった、ぼくはのどがかわいて仕方ない。
Poi arriviamo davanti alle angurie e mi venne sete.
女たちが大声を張り上げて叫んでいる、まるで大きな町の市みたいだ。
Gridavano, specialmente le donne, che pareva un mercato rionale.
よく見ておくんだぞ、ベルト、ぼくは立ち止まらずに自分に言いきかせる、
Guardali bene, Berto, dico senza fermarmi,
おまえはもう、こういった連中の手のなかに落ちているのだから。
e` in mano a queste gente che ormai ti sei messo.
――Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社


アーケードに立って市を見渡すと、浜辺に来たみたいだ。
Dai portici guardare il mercato sembrava di vedere una spiaggia.
シャツの店、下着の店、帽子の店、
C'erano i banchi delle camicie, delle maglie e dei berretti,
屋台のまえを通り過ぎるだけで汗をかいてしまう。
che facevano sudare solo a passargli davanti,
田舎は万事が厚手だ、足の裏の皮からコール天のズボンに至るまで。
perche' in campagna e` tutto spesso, dalla pelle dei piedi al fustagno dei calzoni.
タリーノは人波にぶつかりながら、
E Talino andava deciso, scontrandosi nella gente,
ときどき足もとの犬を通すために股をひろげる、
allargando le gambe perche' ci passano i cani,
そして肩に三角にかけた赤いハンカチで首の汗をぬぐいもせずに、
senza asciugarsi il collo con quel fazzoletto rosso che gli faceva triangolo sulla spalla.
のし歩いていった。
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

ヌーさん、掲示板見てる? 原文も載せてあるから、自分なりの対訳を作りながら読むと、翻訳と直訳の違いが根本から分かって面白いと思うよ。おまけにパヴェーゼの深読みができちゃうし……

やがて、腰に赤い布を巻きつけた馬丁のような感じの男の、露店のまえに立ち止まった。
Si fermo` davanti a uno dalla fascia rossa alla vita come un carrettiere,
鋤や鶴嘴など、鉄製品が並べてあった。
che vendeva ferri da vanghe e picconi.
男はびっくりして立ち上がり、シャベルの背をハンマーで叩き鳴らして、ひとを呼ぶ。
Questo salta in piedi e si mette a picchiare con un martello sulla pala di un badile e chiama qualcuno
すぐに男の子がかけてきた、男はタリーノの横腹をつつく。
e arriva un ragazzo e lui allora da` un pugno in un fianco a Talino.
もちろん抜け目のなさそうな男だった。
Sembrava sveglio il carrettiere, e si capisce:
たとえ田舎まわりとはいえ、商売上、あらゆる釜のスープを食べ、
con la vita che fanno, anche se girano soltanto la campagna, mangiano tutte le minestre
昼も夜もさまざまな人間にあって暮らしているからだろう。
e vedono la gente di giorno e di notte.
タリーノとは嫌だが、ピエレットとなら、
Se invece di Talino mi fosse rimasto Pieretto,
いっしょにやってもよさそうな商売だった。
quello era un mestiere da fare noialtri.

男は、すぐ裏手の酒場に、タリーノとぼくを連れこみ、
Ci porto`, me e Talino, all'osteria la` dietro,
そこから商品と店番の少年とを監視した。
di dove comandava con l'occhio i suoi ferri e il ragazzo che glieli guardava.
入口で二人は立ち止まる、これからぼくと家に帰るところだ、とタリーノが言う。
Sulla porta si fermano, e Talino gli dice che andavamo a casa.
「うまくやれよ」相手の男が言う、「八月の聖母の日にもなればもう心配ないだろうから。
- Lascia fare, - dice l'altro, - per la Madonna d'agosto arrivate sicuro.
まあ一杯やろう」
Bevi una volta - ,
ぼくらはなかに入った、彼がぶどう酒を注文する。
Entriamo dentro e comanda del vino.
最初に、無罪放免になったのか、とたずねる。
Prima cosa gli chiede se l'avevano prosciolto.
男はタリーノの肩に手をかけ、安心しろ、と言った。
Gli da` una mano sulla spalla e gli dice che stesse tranquillo
プラートの連中は草を刈ることしか考えていないんだ、
perche' quelli del Prato pensavano a tagliare il fieno
警部が話を決めに証言をとりに行ったときも、
e quando c'era andato il maresciallo per concludere e fissare i testimoni,
いまはそんなことにかかずらわっている閑はないと言ったそうだ。
gli avevano risposto che non era piu' la stagione.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

そこで馬丁はぼくのほうを盗み見た。
Qui il carretiere mi guardo` di traverso.
ぼくは真正面に彼を見据え、笑いながら、タバコを差し出す、
Io guardo lui, gli rido in faccia e tiro fuori il pacchetto.
「これで終りだ。どうぞ。タリーノとは仲間なんだ」
- Sono le ultime. Andate avanti. Sto con Talino -.
タリーノが言う、「おれの家に働きに来たんだ」
Talino dice: - Viene a casa nostra per lavorare -.
相手は笑い声をたて、タバコをとり、ぼくらに酒をつぐ。
L'altro si mette a ridere, piglia la sigaretta, e ci versa da bere.
それからしばらくのあいだ火事の話が続いた、
Poi continuano un pezzo a parlare del loro incendio,
そういう二人をぼくは椅子の平均をとりながら眺めている。
e io li guardo bilanciandomi sulla sedia.
彼の家に行って自分はどんな仕事をすることになるのか、ぼくは胸のうちでたずね返していた、
Mi chiedevo che razza di lavoro andassi a fare a casa sua,
そのうちにぼくの頭は火事でいっぱいになってしまった。
e l'incendio ce l'avevo io nella testa.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社

このところずっと『小さな匠たち』を読んできたのに、あと二、三〇ページばかりのところまで来て、いっかな読み終えられない。次々にほかの本ばかり読んでしまう。こうしてしばらく置いたら、この長編小説をまた始めから読みたいということなのだろうか、これは? ルイージ・メネゲッロも死んでしまったことだし……

安重根と並ぶ英雄が北朝鮮に現れるのを、
ぼくらはあと何年、何ヶ月、何日、何時間、
何分、何秒、待てばよいのだろうか?               梁赤日

息子が指圧の腕を上げた。前は力任せ一本槍で、おれの背中は死ぬかと思ったが、近頃は「そっとな」と言うと頷いて、牡牛の馬鹿力を仔牛の糞力ぐらいには控えてくれる。どうしてどうして、タリーノよりはよほどできがいい。一回三百円で毎日熱心にやってくれる。

短いエピローグ

さよなら――たった四文字の最も短いエピローグ。それでも本書末尾に記される「了」の一文字には敵わない。本来ならプロローグを書いたエリサがこのエピローグも書上げるべきだろうけど、音信不通、エリサとは連絡が取れないままに、ぼく昶(あるいは白浜碧)が44章以下を書き継いだ。エリサの体験した縄文埋没谷発掘記からパヴェーゼ詩との取組みへと、いつしかテーマが移ろっている。エリサの心の奥底に秘匿されていたパヴェーゼの世界が縄文谷の土に触れることに触発されて、一気に広がったのかも知れない。エリサの感情の激発に触れる立場にぼくはいない。けれども、ああ、死はつねにぼくらの身近にあり、土を掘ることで欲望を覚え、愛が芽生えたとするならば、エリサの体験はやはりどこかでどのような形にせよ記されるべきものではなかっただろうか。




 



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