2009年10月15日木曜日

プロローグ、そして1~30



 
消えゆく青春――翔べアポロン蝶、縄文谷から――           


プロローグ

三度目の免停、人を轢いたわけでもないのに!
「後ろにいたんだけど、分んなかった?」
なんてホクホクニカニカしやがって、白バイ小僧! 死角に付けてたくせに! 車線変更で切符切るなんて、極東のこの島国だけだぞ、バカ!
あたしの可愛いお尻ばかり狙いやがって、ストーカーかな、あいつ?
「御用はないよっ!」
ってあれほど言っといたのに!
罰金ばかり払って、講習受けてまた金ふんだくられて、これじゃいくら稼いでもおっつかない! あたしも考えなくっちゃ、クスン!
ああ、マリアさま!
公安野郎の仏頂面拝まされ、二万七千四百円大枚の印紙税払った挙句、ウザイ講習ガマンで受けて免停一五〇日が短縮でも七〇日間なんて酷すぎる。
エイヤーッ、免停ヴァケーション! 来月、再来月無収入という経済的逼迫を別にすれば、この免停ヴァケの齎す時間的潤沢さは絶大だ。ひもじさに耐えつつこれを精神世界の豊穣さに転化させれば、近年にはないことだし、ダイエット効果のおまけ付じゃん!
下車勤もしないで腹空かせながら小説書き上げるのが癖になってしまいそう。どうせ新人賞なんて根は古い女のあたしには無理だし、あたしタイプの旧人賞なんて探してもないかしら? いくら構想練るにはハングリーがいいからって、齧るものがあたしの指しかないなんて! クスン、クスン!
ああ、聖母さま、マリアさま!
「往け!」という思念エネルギーだけで走るサイキックカーが出来たなら、あたしもそんな車に乗りたい! 遠い過去にまで、近い未来まで。
けど、免許証戻るまで、縄文遺跡発掘のバイトしようかな、食指が動いた途端、応募しちゃった。後は先方からの連絡待ち。
何年振りかの黒川段丘、湧水池の欄干に赤蜻蛉がこちらに一匹、あちらに二、三匹。いま水平に翔け去ったのは銀ヤンマ、シオカラ、鬼ヤンマ? 真鯉が大きな口を開けている。どんぐりを手のひらいっぱい握りしめていたっけ。左手のひらには毬を踏みつけて抜いた栗の実二粒。帰ってこない幼年時代。あたしの青春。女郎蜘蛛……


始まった。
何が?
あたしの縄文発掘大冒険が!
といっても今日は、市役所へ行って昨日付で辞めた会社の社会保険資格喪失書とかを出して、国民健康保険証を貰ってきただけ。
問題は明日の現地面接だ。
五日市線武蔵引田で降りて徒歩一〇分と言うのだが、炎天下を半時間はテクルに違いない。車を降りてトイレに行くくらいしかおのれの二本足で歩いたことのないあたしとしては、これは大問題だ。マップをネットで引き出すと、滝山街道まっしぐら、秋瑠野台地の真ん中だね、快適なドライブが約束されてそうな気配なのに、免停中のあたしは電車でゴトゴト行くしかない。とりあえず、歩く予行演習が最低限必要だ。
で、気の急く往きはバスにして、帰りは歩くことにした。保険証はすぐにもらえた。市役所食堂のラーメンは相変らず旨かった。少なくとも府中試験場や南砂のタクシーセンター食堂のよりもずっと旨いし、安い。三三〇円だぜ、諸兄!
中央公園を抜けて、野鳥の森公園の階段坂道を下った。早くも脚がガクガクする。縄文
遺跡が地下二〇メートルの筈はないけど面接で舐められてたまるっか、と頑張る。木陰の坂を下りきったら、野鳥の森公園はあっという間に尽きて、シマッタ! あとは木陰一つない高架線下の住宅街の道を踏切近くの十字路までテクルしかない。でも明日はきっとカンカン照りのこんな一本道を二、三キロテクルんだ!
クラクラするカンカン照りの一本道をテクっていると、あたしも無性に《理由なき殺人》をちょっぴり犯してみたくなったけど、それは学生時代の話だ、鬱屈してたもん。だって「太陽がそうさせた!」なんて格好好いじゃん、あれはムルソーだっけ?『異邦人』。サルトルよりもカミユ一点張りだったあの頃。映画は『太陽がいっぱい』、大好きなマリー・ラフォレ! けど深いところでやはりパゾリーニなのか? 眩い陽射し。それにドストエフスキー、スタヴローギン。眩む目に浮ぶは天上縊死の空中散歩、使うはむろん絹の真っ白いマフラー。ピンと張ったマフラーの先は目映い光に包まれて見えない。どこかの神さまが親指と人差し指でつまんで揺らしているのか? ゆらりゆらりのスタヴローギンを仰いで、あたしもそのような死を死ねるものかと溜息を吐く……
予行演習も辛いものだ。踏切渡ってやっと辿り着いた遊水池ベンチ、値千金の日陰で一服二服……五服して腰を伸ばすとメリメリする。乙女としては気恥ずかしい大の字で七、八分、いや十五、六分は眠ったろうか? 
それからはどかちん仕事終って日が暮れてくたくたのまま駅までテクル予行演習。部屋に辿り着いて、シャワー浴びて、ロックの黒焼酎片手にデルに向かう。いや、天国天国。明日の現地面接が思いやられるけど「明日は明日の風が吹く」って言うじゃん!
「いま読んでる本は小林達雄『縄文人の世界』です。なかなか勇敢な先公じゃん!」てなことで、面接クリアできれば問題なしのノープロブレム。
小林達雄は大胆なだけではなくて明晰だ。だからその縄文仮説の多くには説得力がある。Oh, those basic jomonn attitudes! 故里の遠くの山の残雪「逆さ川」の字を見て、農事のタイミングを測るエピソードも感動的だ。あたしの生れ故郷でも富士山の白馬見て決めてたんじゃなかったっけ? 


ああ、シルヴァーナ・マーンガノ…… それに偉いのは尖石遺跡の宮坂だ。彼は身上、家族入れ揚げて、縄文竪穴住居を発掘した男だよ。六時に起きて一〇時には読み終えてしまった。やおら身支度して駅に向かった。一三時半の現地面接にはまだ三時間余りあるのに、気にしなかった。昨日とは打って変って曇り空、絶好の発掘日和。
ムサシインデンではなくてヒキダと読むのだ。五日市線沿いの地名は概ね訓読みが正解だ。中神は重箱読みのナカジンではなくてナカガミだって。どんな山の中かと思ったら、意外と平坦地だ。目下取壊し中の阿伎留病院の先まで一本道だ。アジア大野球部の真向いといったところか。信号を通り越して行過ぎてしまい、さっきユンボを見かけた所まで戻る。道路際のプレハブ二棟が事務所で、その奥二〇〇メートル余りの地所が発掘現場だった。建設現場にしては異様に人が多いので、すぐそれと分る。遺跡発掘の基本形態は人海戦術の手作業だ。現場監督らしい小太り無愛想な男に断って、見学させてもらう。
女も年寄もいるが学生のバイトらしいのは意外と少ない。スコップを土に食い込ませるのは刃先の三分の二までだ。そして切取った土を砕いてはジョレンで掻き寄せ、塵取りのお化けみたいな箕に収めて一輪車に乗せ、ベルトコンベアに吐出す。ぜんぜんどかちん仕事ではない。むしろ地表という大地の皮を一枚ずつ剥いでゆく丁寧な作業に等しい。未作業の地面には到るところ、髭剃り前の蒸タオルにも似て、水色のビニールカバーが被せてある。
これならあたしにも出来そう。安心してテント陰の赤い灰皿缶を前に一服する。
背後は多摩川、平井川の河岸段丘、秋川はどっちだっけ? 前方は奥多摩の山々だ。幼いころから見覚えのある烏帽子形の大岳山、かの大菩薩峠も霞んで見える。水色のビニールカバーに出来た水溜りの上で番ったシオカラ蜻蛉が舞う。あたしにもあんな時代があったっけ!
連中が昼飯を喰いにプレハブに戻った隙に周囲を散策、あたりは伐り払われたばかりの栗林だったことを発見、両のポケットを栗で一杯にする。割れた毬一つに大粒の栗が三粒も入っている、大猟だ! 踵の硬い靴を履いてれば、もっと素早くリュック一杯栗を集めれたものを! 縄文本に栗は生食できると書いてあったから、試しに剥いて齧ってみる。味はしないがなかなかいい感じだ。縄文人だけなものか、北イタリアの山間地帯ではいまも栗が主食だろう。帰りの電車がほとんど栗林の中を走っているのを発見した。言い忘れたが面接は難なくクリア、「未経験だから時給は七五〇円ですね」だって。月曜日から頑張るぞ!
茹でたら旨かったぁ、あたしの拾ってきた栗! 結局、飯盒一杯分はあった。大満足。時給安くたって、これで食い繋げる。明日、明後日の土、日は淺川までテクって帰りに中央図書館によって、ごっそり縄文本を借りてくるとしよう。


キラキラと輝く水面。こんなに近くを流れている川なのに、この土手に登るのは何年振りのことだろう。目を瞑ってたって土手の近いのは分ったよ、爽やか川風くん! あっ、もう秋風か? 途中、用水の小橋下の大きな真鯉と目があってしまった。
「待ってぇー鯉さん、釣針外せなくてご免、でもあたしの釣竿返してぇ!」
遠い日の淺川のあの鯉は優に一メートルはあったっけ。仕掛けもろともあたしの大事な竿を水面に引き摺って、中州の岸を追いかけるあたしを尻目に、水脈を曳きながら悠々と多摩川との合流地点まで泳いで消えてしまった。
「へん、鯉なんて掛かるもんか!」
って高を括って、川砂利に竿尻を挿したまま遊び呆けていた幼い日のあたしがばかだった。
湧水脇の細長く急な小階段を登って小神社の敷地から中央図書館に脇から入る。十冊は多すぎるって、一冊返しに棚へ戻ったのがいけなかった、結局十五冊、縄文本ばかり借りる羽目になっちゃった。両手が千切れるほど重いけど、駅を越えて部屋まで二、三キロはテクルのだ。これにてあたしの発掘予行演習は完了! 明日は本番、九時~五時、立ち尽くめの肉体労働、あるいはしゃがみ込んでの手作業だ。
シャワー浴びて足指の間の股を入念に洗う。縦に皮膚が破れて肉が見えている。水虫から黴菌が入ったんだろう。縄文土壌手前の破傷風菌がここから入って、あたしは明後日には死ぬかもしれない。あたしのこんなとこに惚れて八つの股を舐めまくるなんて、ばかかあいつは! 今ごろ二郎の口の中は水虫だらけだろう。だから水虫になったのか? それとも別れたから水虫が悪化したのか? 少し逢いたい気もするけど、絶対に逢ってやらない。あたしの口に水虫返されたら困るもん。
今日借りた縄文本のうち、あたしが真っ先に通読する羽目になったのは意外にも『私が掘った東京の考古遺跡』だった。これはペーパーバックだし、明日の発掘初日に向う電車の中で読もうと、リュックの脇に突っ込もうとしていた一冊だった。しかし他の大判の書を押しのけて、これがあたしの心を捉えてしまった。著者佐々木藤雄はあたしが最も素直に共感できる感性の若手(少なくとも本書執筆当時には)考古学者だった。何よりも彼には「科学する」心構えがある。これは大切なことだ。一作業員としてとはいえ初めて遺跡発掘に関る前日にこの本と出会えたのはあたしの幸運であった。
金子ふみ子は小菅だったか? 大杉栄ほか多数が収監されていた戦前日本の縮図、豊多摩監獄・刑務所つまりは中野刑務所跡地の新井三丁目複合遺跡を、これは主に弥生後期の集落ではあるが、彼もまた発掘したのは偶然であろうか?



ああ疲れた、もう死にそう。
縄文の川を掘った。一万二〇〇〇年前頃、縄文草創期の地層だ。イオンがこんなとこまで進出して、このあたりはその駐車場になるのだそうだ。すでに栗林は薙ぎ払われ、雑草ごと地表が剥がされていたから、すぐにも発掘に取り掛かれる。黒い地層を掘って茶色い地層が現れたらスコップを止めればよいのだ。人懐こい山羊髭の米山監督が懇切丁寧に説明してくれた。先日の無愛想小太りの男はただの作業員、実は測量係りの無口な七邊さんだった。
あたしたち新人五人は横一列に並んでまず移植鏝で作業開始することになった。
「カチッ」
確かな手応えに土塗れの橙色の破片を摘み上げ、軍手で土を払いながら、監督に示すと、
「ふむ、縄文土器の欠片だね」
《嬉しい、幸せそのもののあたし》
早速赤色串を二本発見箇所に挿し、ビニール小袋に入れたあたしの土器片をその一本に結わえ付けた。その後、男の新人二人は監督の指示で左隣の領土に引越しし、あたしたちの領土はあたしたち新人女三人のものとなった。
小さいながら初日から次々に土器片を発見する僥倖に恵まれたあたしは、おのれの領土を右隣の女――これが実はサオリだった――に譲りたくなかったから、左新人男二人分の旧領土もあわせて発掘する羽目となった。最右端の農家の主婦新人がじりじりとこちらに寄ってくるので、あまり目立たないように右隣の女、実はサオリにあたし本来の領土を譲り気味には進行したが、それでも負担は三倍増だった。
もう移植鏝など握っていられない! あたしはスコップに持ち替えて、眼前の黒い地層をスライスしだした。スコップの重さに両腕の力を若干加えるだけで、刃先は別の地層に到達した。かつてのように片足を刃の肩に当てて一押ししたら、他の地層も突き抜けてしまう。スライスした土は細かく砕きながら箕に寄せて、箕が一杯になるとベルトコンベアに空ける。だがこれが重い。あたしのか弱い腰にもろに来る。何度も何度もこの重労働をくり返すうちに腰振ることが快感なんて思いもよらない身体になってしまいそう!
「ジョレンを使って、砕いた土はつねに片付けておくように」
「移植鏝の刃でそんなに土器片を擦ったりしては絶対にだめだよ!」
受けた注意はそんなものだった。あっ、まだあった!
「仕事も終ってねえのに、タバコ吸うなよ!」
強風の中、ブルーシート張って、明日の雨降り対策もひと段落、ふっと気を抜いた途端、五十絡みの先輩小父さんに窘められてしまった。確かに終礼五分前だったけど、日永一日肉体労働に終始して一日のニコチン摂取量を大幅に下回っていたあたしは無視することにした。それでも、
「ああ、節々が痛てえ! 無事に部屋まで帰れるかどうか? タバコぐらい勘弁しなよ!」


助かったぁ! 雨降り天気予報のおかげで今日は発掘中止。よってこのあたしも節々の痛み堪えつつ、這って発掘現場に行かずに済んだ。けど一方で掘りたかったぁ、無念、残念!
縄文の欠片なければ潮干狩り浅蜊無き日もまたある如し          エリサ
縄文の音沙汰ばかり聞ゆれど逢いたい気する弥生のきみ          エリサ
雨降りで発掘中止の日には、歌も興に乗らない。短歌のつもりがみな狂歌みたいになってしまう。一体何時になったらあたしにも俵万智みたいな歌が詠めるのだろう? 
水蜜桃の汁吸うごとく愛されて前世も吾は女と思う 
――か、いいなぁ! 好きなのは四万十川風のてのひらや吾を攫えオートバイの君だけど、……立派な歌詠みになれたなら、ほかには何も要らないこのあたしなのに! やはり良い師に恵まれねば無理か? それでも無理か、このあたしには? 
《ま、倦まず臆さず詠み続けることだな。そうすればおまえでも生涯に一首くらいはものすことが出来るだろう》
と、あたしの内心の声がのたまう。低気圧の影響か、本降りになった。明日は大丈夫だろうか、日雇いの悲哀がもろに胃に響く。雨の日は無収入。その分、切詰めねばならない。


低気圧通過の風雨予報で、発掘は午後一時から。ニコヨンならぬあたしは時給でナナコハンだから、空いた時間で長靴買って行くのは良いとして、三〇〇〇円超えたら赤字だよ。交通費片道自腹の二九〇円、ハイライトは減らして三個で八七〇円、弁当三四〇円に抑えても計一五〇〇円。一三〇〇円くらいの長靴見つけないと、ジュースも飲めないぞ! あれっ、雲間から陽が出てきた。どうせなら泥濘乾かすくらいに照ってくれるといいのに!
やったぁ! 八高線陸橋脇の靴流通センターまでテクって、九七〇円の長靴見つけた。けど三年半前には同じ値段で膝下で結わえるブルーにイエローストライプの超お徳の品があったけど、お洒落なイエローストライプが曲者で、しばらくするとその下の合せ目から水が滲みこんで、洗車の度にあたしの右足が辛い思いをしたのだった。そのブルーの長靴はあたしの営業車のトランクに投込まれたまま、いまは相番の運転で空しく都内を回っている。
今度のは黒一色、実用一点張りで脹脛までしかないけれど、今年一杯もてば、ま、いいか? あたし自身そんなにもつか分らないし。その場で履いて帰りかけたはいいけれど、もうパラパラゴロゴロ雷雨に見舞われた。
雨の中、引田まで行く。発掘開始後、素晴しい晴天に恵まれた。だけなら良かったんだけど、発掘現場に渡した板の上で泥で滑って転倒滑落したあたしは、自分用のジョレンの峰でしたたか右胸を打ってしまった。瞬間、息も吐けなかった。
《安心せい! オカメの峰打ちじゃ、肋の二、三枚は折れたろうが、大事無い!》
《ったくー、鋭い刃の上に倒れこんでいたら、いまごろあたしの素敵なおっぱいの右半分はなかったことだろう!》
「う、ううーむ」
「大丈夫か? 滑るって言ったろうが?」
「だ、大丈夫(なわけないだろう!)」
泥濘に泥だらけの眼鏡を発見したあたしは、誰か他の人のかなと心配しながら手にとって見たら、やはりあたしので、おまけに蔓がひん曲がっていた。
五時まで踏ん張って、帰りの電車でリュックを外そうと身体を捩った途端、痛くて息も出来ない。結局行きつけの整骨院五才堂に滑り込みテーピング、サポーターもして貰う羽目に。右手拇突き指のケアまでは気が回らなかった。ほかにも肘、膝に擦り傷があった。無視むし。風呂は入ってはだめといわれたが、髪まで泥だらけだもの、温いシャワーを浴びないわけにはいかなかった。
《明日も頑張るぞぉ!》
《頑張れよぉ、ばか》


当然している内出血は皮膚の上からでは分らないそうだ。胸骨から出た柔かい骨が硬い骨に変るところがぐらぐらしている。内出血した血は作業を続けていると胸からお腹の方へ下がってくるそうだ。笑うと痛いし、身体を捩れない。トイレに行ってもいきめないのが辛い。身体が痛みを拒否して便秘二週間に及ぶ人もいたとか脅される。
「ある意味で農作業よりもきついからなあ、発掘の仕事は!」
と、言われてしまった。遺跡発掘のバイトをしたことがあるのだろうか、五才堂の若先生は? 診療時間過ぎてまであたしの胸をマッサージしてくれた親切な彼は?
それでも箕に三杯も掘って一輪車ネコに目一杯濡れ土を乗せて狭い渡し板キャットウォークを登って、コンベアに空けるとヒョイと身体ごと空のネコを宙に捩って方向転換、また泥で滑る板に載せ下る、見栄っ張りなあたし。そろそろと空のネコごと渡し板をあとずさって降りてくる男の子を待ちながら、不器用な奴めと死んだ眼で眺めるあたし。
コンベアに空けるのにしくじったおばさんの土を、いいのよあたしがするから、とスコップで掬ってはコンベアに投げ入れるあたし。雨で濡れた土は重いけど柔かいからハカが行くなあ、と気を緩めた途端スッテン、ネコごと地面に投げ出され、尻餅搗いたあたし。
《林立する遺物目印、赤串の上に落ちて串刺しにならないでよかった、あたしのお尻!》
泥濘でトレーナーからパンティまでぐしょ濡れ。グッスン。彼が折角捲いてくれた純白の肋骨サポーターまで土色染め、グッスングッスン。後はようそろ、自分の肩幅の三倍の幅まで何度もスコップ縦に入れて縄文の川床の土をスライス、ジョレンで掻き出しては箕に入れてネコでコンベアに何十回。
朝方は雨模様だったのにいまは遠くの山で降っているのか、飛ぶ雲に遠い山肌が白くけぶっている。爽やかな大気、垂れる汗に心地よく吹き渡る風。でも野良の陽射しの強いこと。縄文の川よ! 亞伎瑠埜よ! 今日は用心して長袖に着替えたのに、雨と汗に濡れた袖の下で両腕が昨日までの日焼けと疲労に火照っている。太陽は敵だ。
やっと向こうの山の端に陽が沈んでくれて終礼、ご苦労さん。普段なら間に合う筈のテクテクで五時三〇分発を逃して、半時間待たねばならない黄昏、片田舎のプラットホーム。ああ、金曜日!(なのに探して買ったあたしの三文判、朱肉が無くて出欠簿に押したけどコピーに写らなくて、月末締一五日払の給料にはこの日の日当分は振込まれてなかった。監督に言って会社で調べてもらい、結局翌月分で清算。出欠に拘るなんて幼い日のラジオ体操以来だけど、あんなにしんどい思いして頑張った金曜日が、たとえ雀の涙の給料面のみでも、無かったことになっては堪らない)
それでも朗報! 雨の日もあったから今週は正味たった三日半なのに、いまシャワー浴びて測ったら二キロも痩せてるよ! 大成功、あたしの縄文発掘ダイエット大作戦、万歳! 何たって女は美貌が命だからね。野球帽と手拭の下で陽には焼けても、縄文贔屓のスリムで知的な北方系美人だよ、あたしは。
《三吉野桜木の発掘チームのみなさんお元気ですか? 明日の土曜出動は断固休むぞ!と、決めた途端ハリが抜けて、端末点けたままごろ寝、気がついたら午前三時のあたしです。おお寒! 窓は全開、畳にシャツ一枚のあたしです。月曜の朝には出ますので、よろしくー!》



「今日は発掘中止です」
「はい、ありがとうございます」
連絡網のサオリちゃんから、午前六時二六分。あとひと寝入り出来る。
《ありがとう、台風一六号、一七号さん!》
身体はメリメリ、あちこち痛くていまにも分解してしまいそう。今日あたりが限界、救いの雨だよ、雨! 起きたら浴室まで這って温めのお風呂に入る。湯船に身体を伸ばして小窓を開ける。しっかり降ってる。ひと安心。
この雨に降り籠められて、サオリちゃんもサクラ先輩もあたしの小説じっくりと読んでいてくれるだろうか? 
「いまネットに公開中だよ」
って昨日の別れ際にチラリと言っておいたんだけど? 
《ま、無理かな? 期待薄》
って、風呂場の小窓から薄い紫煙が雨のお空に流れ出てゆく。
サオリちゃんはライラックの中古サニー、サクラ先輩は真っ赤な新車シヴィック、あたしだけ駅までテクって、立川乗換えだよ。これって酷くない? あたしのブルーのスカイラインは駐車場であたしの免停明けをじっと大人しく待っている。電車待ちながらホームで缶ビールのプルでも引張ればいいのかな?
生憎駅前の自販機にあるのはジュースとコーヒーばかりだし。素面でもこの前なんか寝ぼけて昭島駅でホームに飛び出しちゃった。そそっかしいんだから。全然、気がつかなくって、ある筈もない中央線乗換ホームを探しあぐねた挙句、さっきまで坐って舟を漕いでいた折角の立川直通電車を見送る羽目に。あたしの寝ぼけ度は結構深刻なんだ。ハンドル握ってなくても危ないあたし。飲んで坐ったら立川どころか、終電の五日市で起されそう。
発掘作業もルーティンになると書くこともあまりない。
昨日はベルコンの配置換えをした。それだけ作業が進捗しているってこと、あたしたちの踏ん張りで。しゃがんで移植鏝ばかり使っていたサオリが二つ手前のベルコンにネコの土を空けてる。
「フウーン、やれば出来るじゃん!」
サオリの空けた土があたしの前に流れてきて、瞬間、あたしの土も合体させようかと思ったけど、なんかエッチな気がして気が退けて、サオリの土の尻に付けてあたしの土を空けに掛かった。途端にあたしのネコが渡り板の上でふらついて、空けかけた山盛りの土が零れかかる。バランスを崩してもどっこいあたしは落ちなかったけど、ネコがひっくり返ってしまった。折角掘って箕に五杯も集めた土を全部あたりにばら撒いてしまい、ああ勿体無い! おまけにネコの端がベルコンの非常停止紐を引っ掛けたのか、あたしの前のベルコンだけ止ってしまった。ドジなあたし。グッスン。でも失敗の数は減る傾向にある。
ささやかな収穫もあったっけ。
「サクッ」
スコップで土をスライスすると、滑らかな黒土の断面に小さな白い円。ただの根っこじゃない、山芋だ! 自然藷かな? 縄文の川床に深く根を下ろしたゆかしい山芋! 細いけれどあたしはこれを縄文芋と命名し、移植鏝で丁寧に掘り出し、細切れながら集めてポケットにしまい、晩のおかずにした。美味しかった、あたしの縄文芋!


《ありがとう、低気圧。秋雨前線さん! お陰で明日も発掘中止の公算大。連休だよ! これであたしの身体も持ちそう。けど全国的に大雨の被害が出なければいいのだけど、取って付けたように他人様の心配まで偽善的にしてみせる余裕の生じた今日この頃です》
寝る前に濃いお茶を、勿体無いから渋いのまでがぶ飲みしたのがいけなかったのか、まったくニュータイプの悪夢に魘された――狭い路地をバックしてくるライトバン。あたしは他人の庭先に避けた。するといきなり加速してその庭先に尻から突っ込んでくるライトバン。対向車があったのだ。急ブレーキ。胸に衝撃を受け、後頭部を塀に打ちつけ、崩れ折れるあたし。
「大丈夫。頭は割れてないし、血も流れてこない」
「早く、救急車、呼んでよ!」
なのにライトバンの茶髪のあいつはあたしを抱きかかえると農家の離れみたいな祈祷所に連れ込み、冷たい板敷きに横たえ……あたしの乳房を露にする……早くもあたしの股間を握り締めるあいつの右手……
「う、ううむ。すみません、寝過ごしちまって!」
「あ、連絡網です。今日の発掘は中止です。さっき応答なかったんで、米山さんから確認がいくかもしれません」
「はい、分りました。ありがとうございます」
七時一〇分。サオリの声に乗って爽やかな風が耳朶に吹きつけるよう。けどもっと気の利いた応答が出来ないものかな、あたしは? 無理だね、あんな悪夢が無くたってあたしの寝起きの悪さ、寝起きの機嫌の悪さは天下一品だもの。
折角の雨降りだから、これを機会にあたしの発掘参加をお浚いしてみよう。
発端は『縄文少女キキの冒険』を構想中だから、というよりも昨年来、書きあぐねているから。どんなにたくさん本を読んでも、縄文時代に生きるあたし=少女キキの生活実感が湧いてこないのだ。深夜に縄文川に横たわって、満天の星屑を見上げたら、そして山の端から昇る眩い太陽の朝を迎えたら、少しは実感が湧くかもしれない。ゆえにまず、動機はあった。
そしてきっかけは先述もしくは後述、あるいは双方の七〇日間免停だ。ネットで調べたら、あたしの条件ではM埋蔵物研究所の発掘バイト一件だけがヒットした。むろん都や市町村の教育委員会にも直接問合せしてみたが、いずれも目下作業員を募集していない、もしくは民間に外注中とのことだった。決め手はM研担当者のソフトで知的な対応振りだった。ホームページを覘くと、ライブラリーに例の小林達雄の「多摩ニュータウン発掘報告」なるものがあった。応募前の気忙しさの中で拾い読みする。
《へえーっ、意外と和風レヴィ=ストロースじゃん? 学者ってこんなところで溜飲下げてるんだね!》
で、あたしのほうはエム研で即決まりだった。あとは先方があたしを採るかどうかだけ。現地面接は電話の担当者とは違ったが、まぁ可も不可もなしと思っているうちに採用が決まって、むろん初心者だからあたしの時給は七五〇円、交通費は片道支給、即月曜日からの出勤と相成った。
現地面接したプレハブ棟が発掘事務所で、奥の棟があたしたち作業員の休憩所だった。新人のあたしが坐ることになったテーブルの斜向いで椅子に片膝立てて腰を下ろしていたのが一見ジェロニモかと見紛うほどにインディアン風だけど、本性は「無法松の一生」そのものの立山さんで、現場であたしの終礼直前の喫煙に小言を言ったのもこの人だけど、口煩いというよりはとにかく率先して忙しく働くのが大好きな人で先日もネコ運搬役を一手に引き受けて、あたしたちを煽り捲くった挙句、昼には立眩み、立山さんが目を回してくれたお陰であたしたちは一息吐けたのだった。気の良い人で昼休にハーレーのサイドカーの話をさせたら、もう止らない。作業日には幌付の軽四輪で誰よりも早く現場に入る。
その向い、つまりあたしの隣で弁当をぱくつきながら、六本木時代つまり防衛庁跡地、鍋島藩遺跡発掘の話で盛り上がっているのが測量小父さん、石本さん。その相棒の若い測量士は隣テーブルの無口な七邊さん。見学の時あたしが現場監督と間違えた人だった。あたしが見つけて赤串二本を立てた石片脇に、七邊さんが目玉小僧みたいなレンズか反射鏡の付いた白黒棒、つまりミラーを突き立て、
「はい、二三六番」
と言うと、六、七〇メートル向うの三脚付望遠鏡の後ろから、測量小父さんの石本さんが、両手を挙げて円を作って、
「はい、OK」
と、応える。五百円玉以上の大きさの遺物の発見ごとに、その位置を三次元的に克明にいちいち記録しているわけだ。遺跡・遺物の発掘は宝探しではない、たいへん科学的な行為なのだ。
これでお仕舞い。あたしの宝物の石片は番号を記した荷札と共に無造作に片付けられてしまう。あたしが午前中かかって、五メートル四方の土をスコップでスライスしジョレンで集めて箕に入れてネコでベルコンに運んで何百回、やっと見つけたたった一つの宝物の石片ともこれで、《はい、さようなら!》
その小一時間前、
「あ、上げたらだめ!」
と、声が飛んだけど、そのときにはあたしはあの石片を左手に摘んでやはり軍手の右手指で土を落してはしげしげと見入っていた。
「土にちゃんと跡が付いてるから、そこに戻して赤串立てときます」
と、強情、素直でないあたし。でもそんなあたしの宝物ともこんなに呆気ない別れが待っていたのだから、あたしの態度にも三分の理はあるってもんだ。違う?


台風一過、素晴しい上天気。野辺を吹き渡る強風。ふうーん、日本て、風の国なんだ!
発掘現場は水色の防水シートの上に一昨夜来の豪雨が溜まって湖のよう。
みな横一列に並んでシートの端を握って畳み掛ける原始的な強制排水、むろん排水ポンプも使ったけれど。みな泥だらけになったけど、なぜかあたしだけは作業前から泥塗れだった。作業員プレハブ奥のカーテンで仕切られたロッカー前スペースで素早く着替えたあたしだったけど、現場の作業テントまでの道程二、三〇〇メートルが一面の泥濘に変じていて、なるべく草の上や、無限軌道つまりキャタピラー・ダンプの轍跡を選って進むのだけど、泥濘からしばしば長靴が抜けなくなる。
「縄文人に追いやられて、沼地に嵌った象さんの苦しみがよく分るねえ?」
なんて無駄口、油断大敵スッテン、よりによって水溜りの真ん中で転んでしまったドジなあたし。泥に先行投資したわけだ。
群れ飛ぶ雲の雲間からカッと照りつける太陽。遠く近くの山並。額、頬と言わず、腋、股と言わず汗まみれの肌着を吹き抜ける涼風。野外で働く爽快感がこんなにも心地好いものだとは知らなかった。ゲレンデでの爽快感・疲労感と一脈通ずるものがあるみたいだけれど、その実、労働の爽快感・疲労感はスキーやバスケットボールなどのスポーツとは無縁のものだ。筋肉の運用の仕方もまるで違う。遊びと労働は本質的に違う。「労働は遊びにも似て」だって? 遊びにも似る労働なんてあるものか、アナーキストめ!
午前、午後一回待望の一〇分あまりの現場テント休憩時間に、首元までどっぷり疲労の海に浸かりつつ、水を飲み、遠くの山の端を眺めてはタバコをふかす。
《ふうーっ、頭は空っぽ、なんて気持ちいいんだろう!》
また土を掘る、掘っては運ぶのルーティン作業の中にも、小さなハプニングならいくつかあった。
「あっ、蝉の赤ちゃん! 両手擦って拝んでる! どうしよう?」
「どうしよう?たって、出しちゃったら仕方ないね!」
けど脇に抛り出したら、すぐに乾涸びて死んでしまう! 安全な湿った土の中に戻してやらねば。あたしは箕に掬ったばかりの土の中に、そっと蝉の赤ちゃんを埋め込んだ。その土は他の土と一緒に箕からベルコンへ、五つ先のベルコンから水の溜まった大きな穴の中へ、そこからはユンボの大きなショベルに掬われて、裏手の空き地に平らな山に均される。
《あたしのスコップの刃先で真っ二つにならなかった強運の蝉の赤ちゃん! あんたの運を試してみな! 運さえよければ、また土の中ですくすく育って、大人の蝉になって、来年わが世の春を謳歌できるのだから!》
真新しい土の黒く艶やか滑らかな掘削面の中ほど、小さな円からどくどくと汁が出て蠢きのたくる。あたしのスコップの刃先で真っ二つになった小指、いや中指ほどもあるぶっとい蚯蚓、蚯蚓千匹なんて嫌らしい表現だね。
《どうしよう? 素手では到底無理だけど、軍手なら掴めるかな?》
蠢きのたくる中指ほどにもぶっとい真半分の蚯蚓を無造作に摘んでベルコンに放り上げるあたし。
《蝉の赤ちゃんの運試し、あんたもやってみな、ぶっとい真っ二つの蚯蚓さん!》
農耕は狩猟採集あるいは牧畜と違って生き物の命を奪わないなんて、真っ赤な嘘だね。こうやって殺し尽しながら、弥生集団はおのれの耕地を広げてきたんだ。戦争が彼らの得意技だったことも頷ける。農耕開始と共に人類は戦争を始めて現代に至っているのだ。
陽がようやく遠い山の端に落ちてやっと終業。とぼとぼと三々五々、作業員プレハブに帰る。あたし一人が野面に立ち尽くし、西空に見惚れている。白い雲はあくまで白く、山の端との間の空もまだ素直な青を保っている。ただ雲の下縁が黄金色に輝いて、太陽がすぐ下にまだいることを告げている。引返して来たらまた働かねばならない、懲りない太陽め! 尤も太陽が一旦沈んだ西空からまた昇ってきたら、われわれ下積みにとってばかりか、世の為政者にとってもこれは大事だろう。残り少なになった藪陰を見つけてしゃがみ、玉の汗に輝く丸いお尻を出して、野辺を渡る風に素肌を曝しながら小雉を撃つ。《気持ち好い!》《あれっ、まだ誰かいる! サクラ先輩と近所の農家主婦バイトさんだ》
「ねえ! 何してるの?」
「野花摘んでるの。今夜は十五夜じゃん」
「あれっ、あっちに薄があるぞ! 手前の蒲も手折ってね!」
東の空にでっかい月が顔を出す。素敵な完全無欠、無垢の恋人お月さま! 地上の森羅万象への影響力は深いところで、月の方が遥かに絶大だ。エリサはたったいまおしっこしたばかりの月の天使…… 
上空にはもっと強い風が吹いているのだろう。綺麗になった大気に、空の青が透きとおる。早くも星が瞬いている。
「一番星見いつけた!」



「あ、雉!」
「お、今夜は雉鍋だ」
「可愛そうに、ほんとに居場所がないんだね」
色が綺麗だから雄だろう。ふと気がつくと、作業員プレハブの窓のすぐ外をトコトコ歩いていった。なんだか目が合ったような気がする。きっと、気もそぞろな雌雉が七,八羽も屯するハーレムまで戻って、
「大分先まで見てきたが、恰好な藪など一つもなかったぞ」
って報告するつもりなんだ。ハサミ付のショベルカーが大きな鋼鉄の鉤爪を振立てて、藪でも切株でも何でも一緒くたに摘み上げては、キャタピラダンプに積上げていく。一気に宅地造成にもっていく形勢だ。ここに雉たちの明日はない。野生動物の先住権など歯牙にもかけない現代人たち!
むろんセキレイも見かけたが、あたしの団地に棲む尾長や椋鳥とも違う野鳥がけたたましく啼いて、疲れ切って三々五々作業員プレハブへ戻るあたしたちの前方をこれ見よがしに飛んでゆく。どうやら巣から一歩でもあたしたち野蛮人を遠ざけたいらしい。わずかに残った藪の中から若い雛鳥の声が聞える。あたしが賢い狐なら一散に巣に殺到していた筈だ。健気な親鳥などは無視して。ツバメも宙を切って飛んでいる。掘返された土、撹乱された自然、餌が多すぎて大忙しの風情だ。高空に鳶も輪を描いている。サッと急降下したと思ったら、もう地上で何か啄んでいる。蚯蚓か土竜か? 猛烈な勢いで黒い鳥が鳶を追払う。ばかりか、宙に逃れる鳶を追って壮絶な空中戦。描く弧が鳶よりも小さいから、追いついて尾羽に喰らいつく。烏だ! 縄張りを守る烏は鳶よりも強い。見事鳶を追払ってしまった。
鷹かとも見紛うほどにあの悠然たる飛び方、何事もなかったかのようにあの鳶がまた舞戻ってきて高空に弧を描く。あたしとしては鷹揚な鳶のほうが好きだな、鷹は別格としても。栗林が健在であった頃には、到る所に藪があって、なおも野鳥王国の名残を留めていたあきる野、あたしが来るのが遅過ぎたのか? 無力なあたしが。縄文遺物調査とはいえ、消極的には、自然破壊に加担するあたしが。


《サオリ、東高校の三個後輩だってね、あたしは嬉しいよ! まだ名前の付いてない仔猫、オスとの格闘で連日生傷の絶えないサオリ! 絶対負けるなよ、強いのはあたしだって植込まないと駄目なんだ。明日土曜は発掘休みかな? あたしは出るよ、雨台風休業に備えて、収入確保しとかないと、生活厳しいからな》
「おい、作業中に仕事と関係ないこと喋くんな!」
「ほい、また立山爺に叱られちゃった!」
「聞えてたんだ、危べえやべえ」
と、構えたスコップ越しに舌を出すあたし。土受けの箕を寄せて目玉をぐるりと回すサオリ。サオリったら蒸焼きの集石遺構スケッチを任されたり、レヴェルを覗いたり、エスキモーっぽい固太りポニーテールのミュージシャン逆井さんに気に入られて朝から大忙し。いつも気のいい笑みを絶やさない、いい人だよね、彼。烏に弁当食べられちゃうなんて! それを遠目に見ながら相変らずスコップ、箕、ネコ、ベルコンと、土掘り三昧のあたし。やっとあたしの傍まで戻ってきたサオリと口を利いては悪いのか!
「身体に応えてさ。昨日も帰るなり、シャワー浴びて飯掻きこんで、ロックのウオットカ片手に端末前に坐ったんだけど、もういけない。ぐっすり寝込んじゃって、気がついたら午前三時、窓は開け放し、畳の上にシャツ一枚、毎度のあたしだよ」
「ふうーん、男っぽいね! あたしエリサのそんなとこ好きだよ。うちのチビ雄猫くんの名付け親になってね!」
「あたしゃね、ほんの?三年前に行掛りから白夜書房で『猫たちよ!』って英語からの訳本出してるんだけど、近所の野鳥を片っ端から銜えてくるダムシュアってきかん坊のシャム猫がいてね、うん、あんたの雄猫、ダムシュアでどう?」
「あたしはトラとか虎二郎とかがいいんだけど、寅さんはいやだし……」
「杉並堀の内時代にあたしの飼っていたビーグル系雑種はアパートのお隣さんで桃産直のお兄さん二人が拾ってきた仔犬二匹の片割れでね、北イタリアにベルボ川って小さな川が流れているんだ。それで、ベルボ! 隣は忠治って名にしてね、あたしがベルボを散歩に出そうとすると、忠治が大騒ぎするんだ、それでいつもベルボと忠治二匹一緒に散歩してたよ。あんたのチビ雄猫、トラジはどう?」
「むう、なんか焼肉屋っぽくない?」
と、折角のネーミングが煮詰る前に反古もしくはお預けになっちゃった。尤も仕事中だから仕方ないことだけど。お陰であたしは終業前にネコ転を一発かましちゃったけど。サオリが山盛りにしてくれたネコをベルコンまでよいこらしょ。
「あ、ちょっと待って」
手前でアベベそっくりの八王子のマラソンマンが箕に一杯の土を横から追加したから堪らない。渡し板を無事渡り終った途端、バランスを崩したあたしは転覆寸前、ネコの土を半分以上もブルーシートの上にぶちまけてしまった。大失敗。勿体無い! 仕事を増やしちまった。
「危なっかしいな!」
と、近在農家からのバイト、年金受給者の深井さんが言う。
「どこか身体の具合でも悪いの?」
と、自称小説家クリスチャンの赤田さんが心配してくれる。
「うん、まだリハビリ中なんだ!」
と、あたしも意地になって応えてやる。でも満更嘘でもない。何しろ去年の今頃は若い身空で、坐骨神経痛を発症し、左脚が痛くて杖を突いても満足に歩けず、陸に上った人魚の嘆きを切に実感したことだった。爪先を地面に付けるだけで、身を切られるように痛むのだ。アンデルセンはともかく、人魚伝説の作者は坐骨神経痛を患っていたに違いない。
で、いまも腰痛予防のテーピングとサポーターをしっかりしている。おまけに先日の胸部強打で、肋骨保護のテーピングとサポーターまでしている。まあ、人目に触れるのは突指親指の網包帯だけだけど、白々と痛々しいことこの上ない。
それでも良い事はあるものだ。午後の休憩が終り、各自持ち場に戻る道すがら、稼動中のベルコンを跨ぐことは建前上厳禁だったから、このときばかりはそんな決りを遵守してあたしはベルコン列の遥か端をぐるりと回った。休憩前に人だかりのしていた箇所をこの目で確かめたかったのだ。一メートルほどの長円形の中に礫がぎっしり詰っている。
「何、これ?」
「蒸し跡です」
「ふうーん」
縄文人が獲った獲物のお腹に木の実や野菜根菜穀類などを詰め焼け石を載せ、葉っぱなどを被せて蒸し料理にしてみなで食べた跡なのだった。赤茶色や橙色に焼けた石のそれぞれの色合が異なるのが妙に印象に残った。
まだある。文様のはっきり分る比較的大きな欠片も見せてもらった。三、四千年前の縄文土器だという。水をつけた刷毛でそっと土を落した直後の欠片を見せてもらった。
極めつけはルーティンの土掘りにあたしが戻った直後のことだった。
「カチッ」
「何、これ?」
「ふむ、石皿だよ。この上で縄文人が種や実を擂り潰したんだね。半欠けだろ? だから川に投げたのさ」


「ジョレンはもっと力を入れて掻かなくてはだめだ。見てごらん、あんたの仕事跡が一番汚いだろう!」
と、インディアン風固太り、こちらこそジェロニモそのもの風貌のエム研社員の中井さん。それはそうだけど、言い方がきつい。副監督格で会社の方針批判にも一応筋が通っているのに、人望無いだろうね、言い方がきついもの。事によっては連帯したいくらいなのに、力仕事には無能なインテリ女と嫌われてるみたいで何か寂しい。
土の扱いは近在農家の深井さんが流石に巧みだ。力を抜いて見栄えよく仕上げてる。もっと力を抜こうと今日で三日目の新米のくせに、このあたしに指図する。仕舞いにはあたしが聞えない振りをしていると、腕が腿みたいに太いいかにも体力自慢の若い丘本くんを捕まえて扱き使う。
「もお、いけずうずうしいったらありゃしない! だから百姓は嫌いだよ」
「ん?」
「深井さん、あんたがしてるのはそこに立って土を切ってるだけじゃない。ネコで運ばせるのはいいとして、箕に掻き集めネコに入れるまで先輩格の丘本くんにさせ続けるのはやりすぎだよ。あんたが切った土をスコップでそのままネコに投げ入れれば済むことじゃない。自分の腰を労るのはいいけど、若い丘本くんやあたしの腰はどうなってもいいの?」
「ん、ん?」
と、あたしの見幕に面喰って、目を白黒させる深井さん。みながクスリと笑う。
「だからロシア革命は失敗したんだ。ツァーリを倒したのはいいけれど、ムジークやプラトノイやいけずうずうしい連中に対してあまりにも無防備だったから、スターリンみたいな下っ端の成上りにいいようにされてしまったんだ。革命の寄生虫はほんとはあんたたちだよ」
「ん、ん、ん?」
こうなるともう誰も笑わない。あたしもおのれが何を言いたかったのか分らなくなる。こんなことでは職場をいくら変えても追っつかない。黙って目の前の土を掬ってベルコンに抛り投げる。
(深井さんは三日来ただけで来なくなった。「真直ぐで来たのに、くの字で帰ったから、ありゃ、相当腰を痛めたんだね」いいお百姓さんだったのに、この辺りの作物の話、もっと聞きたかった)
ひんやりとした曇天の今日は絶好の発掘日和だ。さやかに吹きぬける秋風。汗まみれの火照った肌に気持ちいい。剣道の試合に臨むみたいにメット下の手拭をきりりと締めたから、厄介な汗もいまは目に流れ込まない。
今日は土曜日、三〇分の早仕舞いを利用して、一昨夜あまりの疲労ゆえか抜け落ちてしまった歯を大事に持って児童向け歯医者に駆け込む。ここなら終業間際でもあまり混まない。でも抜けた歯をくっつけてもらっただけで、二七〇〇円。今日も赤字だ。ドクトル・ジバゴの世界とはあまりにも遠いあたし。

4 

発掘開始以来あたしの身体に起きている変化。まず体重が二キロも減った。これは連日の疲労困憊からも当然のこととして実感できた。次いで体重は元に戻った。これは足腰に筋肉がつき始めたからだろう、と解釈することにした。その後、体重計は怖くて覗いていない。発掘を長く続けたら、固太りの逆井さんや中井さんみたいな体形になったらどうしよう? 腕ばかり太くなって丘本くんみたいな筋肉マンになったらどうしよう? 軍手を嵌めてはいても連日スコップやジョレンを握っているから、手のひらの皮膚の下に肉刺みたいなしこりが感じられる。手足の肉刺そのものは皮が破れて肉が覗いて血が出ても素振りや摺り足を続けてやがて硬い肉刺になった思い出があるからちっとも怖くない。だけど今度みたいに手のひらが強張って外側に反ってゆく感じで、ペンを握ったりキーボードを叩くには適さない、農耕に適した手になってゆくのかと思うと、やや不安だ。駅のホームでも相変らず階段よりはエスカレーターを選んでいるけれども、必要とあれば苦もなく階段を登るようになった。そのうち駆け登ったり駆け下ったりするようになるのかな? 高校時代はあんなにマラソンが得意だったのに、ここ何年かまともに走ったこともないのに!
ともかくあたしの肉体的変容は目下進行中だ。精神的変容もきっとある筈だから、そのうち何か書けることだろう。


《宇藤カザンさん
綺麗な花の絵とお便りありがとう。あたしはいま三吉野桜木で縄文の川を掘ってます。青森はおいらせ町に住まうとの由、羨ましい限りです。あたしの渡欧経験はパリ経由シャモニー、モンブランから北イタリアに出て、南はローマまでバックパッカーで過した三週間きり。とても在欧一五年余のカザンさんには敵いません。経済環境が好転次第、素敵な御作を購入したく存じます》
今日もネコ転、土満杯の一輪車ごと転覆はほんの一回だけでクリア!
満杯の土をベルコン直下にぶちまけたネコに添寝して、あたしはスーっとそのまま昇天してしまいそうだった。だって立山さんの馬力ときたら、それこそ戦車並なんだもの。
「おれがこの深いとこ、スコップで掘り進んで、中橋の箕に入れる。中橋が股座から箕を出したら、エリサ、それを受けて上のベルコンに空けられるか?」
「いいよ」
「だったら箕をできるだけ集めてきな! 二つ三つの箕で煽られると辛いぞ!」
「あいよ」
あたしは空いてる箕をあちこちから一ダースばかり集めてきて、寡黙な中橋さんの足元に置く。その足元では早くも無法松立山が捻り鉢巻でスコップを振るっていた。もう中橋さんの股座からは満杯の箕が顔を覗かせ、あたしの細腕を待っている。あたしは満杯の箕を屈んで持上げ、目の上の高さのベルコンに空けねばならない。あたしの華奢な腰に最も負担の掛かる過酷な作業だった。トレンチまで掘り進むほんの二、三〇分のことだったかも知れないが、あたしにはそれが二時間にも三時間にも思えたことだった。
「よし、いいよ。またあっちでやってくれ!」
やっと自分の持場に戻れたあたしはスコップで土を切り、ジョレンで箕に掻き集めて、三、四杯満杯の箕をネコに空ける。そこまでの作業がひどく楽に思えたことだった。ましてやネコ運搬は緊張は要するものの、大して力を要さない。キャットウォークを登りつめてベルコンの上サイドにネコを立てる。つまりあたしは前傾万歳の姿勢を取る。そのときベルコン上を大量の土が流れてくる。
《待てよ、この土のケツに空けるか?》 
一瞬躊躇ったあたし。早くもぐらつくネコ。断っておくが、土嚢の上に載せただけの渡し板自体決して安定のいい物じゃない。一輪車はその機能上、不安定こそ命だ。といっても螺子は錆び針金で留めたアームに空気半ば抜けタイヤのネコばかりだから、その行動は予測し難い。ゆえにこの日のあたしの一回きりネコ転であった。


毎日欠かさずに記す心算の縄文発掘記だったのに、連日の疲労困憊でとてもそうは行かない。水曜日には心待ちにしたイヴェントがあって、帰ったら早速打ち込もうと楽しみにしていたのに、風呂入って飯を喰い、これは欠かさぬロックの黒壱片手に端末に向ったあたしだったが、もういけない、気がついたら午前三時、電気は点きっぱなし、窓は全開、畳にシャツ一枚でごろ寝のいつものあたしだった。
「ねえ、いま掘り当てたばかりのその石、もう一度見せて!」
「すっごーい! 石斧じゃん!」
「あんたたち、何年生? 三年、四年生?」
男の子は黙って左手のひらに右人差し指を押しつけた。失敗、失敗、顔立ちが幼いからてっきりもっと低学年かと思ったのに。なんと最高学年じゃん。そういえば体つきは女の子も中学生並みが多い。あたしたちはリボン柵越しに一列に並んで小学生たちの発掘現場を見学していた。
午前中に上げた成果に誇らしげな子、箕の中に空けた土を移植鏝でさらに細かく砕き続けている女の子、ネコを押して駆ける子、目の前五〇センチ四方の穴、そのさらに深堀りに挑む子、発掘現場は少年少女の歓声に満ちていた。
朝一番であたしたちは小学生の発掘現場に充てる区画のブルーシートを剥いだ。
「やれやれあちこち掘り散らかされて後始末がてえへんだ!」
「いいじゃんそんなこと、肝心なのは彼らが縄文発掘の興奮を体験することだよ!」
ぶつくさ言いながらも結構嬉しそうに立山さんが遺物を避けて集石遺構を覗き込めるようにピンを立てピンクのリボンを張る。あたしたちの発掘現場を見学する小学生たちのための誘導路だ。
やがて三、四〇人はいるだろうか、小学生の一団が到着し、ヘルメット姿、胡麻白山羊髭の米山監督が先頭に立ち、いつもの丁寧な口調で縄文遺構・遺物の説明をし、引率の先生たちも熱心に耳を傾けている。土塗れのあたしはなぜか誇らしかった。涙が出そう。感激症なんだ、あたしは! 俯いて土掘りに集中する。いつも通りの姿を彼ら小学生に見せなくては!
あたしはどうして教師にならなかったのだろう? 生徒に教えたのは有名な進学校だった母校に嫌々戻って英語を教えた教育実習の二週間だけ。高校生との接触はあんなにも楽しかったのに、当時のあたしはヴィットリーニ研究にあまりにも忙しかった。D・H・ロレンスのタオルミーナ時代のことやサルデーニャ紀行から話を英文学に持っていって、それほど脱線もしなかったけれど。思えば、彼の『死んだ男』を最初に翻訳したのはあたしだよ、未発表、散逸してしまったけど(その後、高名な福田恒存とかが訳してたけど、あたしはあまり感心しなかったね)。
休憩にテントに戻って水を呑みタバコをふかしながら、あたしたちは小学生の発掘風景を横目で眺める。
「あのネコの扱いは只者じゃないぜ!」
「見ろよ、完璧なおむすび体型の女先生がネコを押してすっ飛んでらぁ!」
「うちにもあんな女先生の一人、二人欲しいところね」
算数とパソコンの時間も潰して、発掘実習を延長、堪能した小学生たち。最後に彼ら先生生徒と、あたしたち作業員は一列に並んでリボンの柵越しにお互いお礼を言い合い、彼ら小学生は帰っていった。あたしたちはむろん作業を続けた。このごろは日も短くなって、山の端に陽が沈むころ道具を片付けブルーシートを張ると、ホームに立って上り電車を待つころには辺りはとっぷり暗くなる。栗林の向う、木の間隠れにチカチカ光る灯火がなかったなら、遠くの丘が黒ぐろとここまで迫ってきたかと思うばかりだ。



あたしは不安だ。
また同じ酷い目に遭うのではなかろうか?
最後の最後まで行って、土壇場で手酷くあたしを撥ねつけたあの女、圭子も二十歳代に入っても十代の娘のように肌が内側から燃え立つように美しい女だった。決して標準的な美人ではない圭子のほんとの美しさを知るのはあたしだけだ、あたしこそ圭子の美しさを啓いて見せるべき女だと、あたしは錯覚していた。世のありふれた男など誰ひとり圭子の傍に近づけたくはなかった。最も愚物と思えた男が圭子に近づいていた。焦ったあたしはあたしたちの最も親密な時間にふと漏らしてしまった、あたしが生れて初めて抱いた同性の女への絶ち難い憧憬を。止め処もない欲望を。
あたしは不安だ。
テント休憩所の半ば日陰に、椅子一つ分のスペースの空いたあたしの右隣の折畳み椅子に腰かけて、サオリは脚を組んで顔をやや仰け反らせぎみに半眼を閉じている。無言で汗の引くのを待っている。あたしは前夜凍らせたペットボトルから溶けた分だけ水を飲み、ハイライトをふかす。疲労から身体が砂になっていまにも崩れ出しそうだ。サオリの睫毛を右目の隅に捉えたまま、あたしは無関心の煙を正面の山めがけて吐出す。あたしが話しかければ、一瞬驚いたような表情の後、他愛もない答えが返ってくることは分っている。それから二人の間でそれなりに話が弾むのだった。でも話が途切れると、残り僅かな休憩時間の間、それっきり黙っている。決してサオリからはあたしに話しかけてこない。これは危ない女だ、少なくともあたしにとっては。いくら肌の匂い立つようないい女でも、その気がないのなら、あたしにはどうしようもない。恋焦がれてしまった挙句に、あんな酷い目には二度と遭いたくない。
「大木さん、すっかり発掘小母さんの格好になったね!」
「でもこれが陽焼け防止には一番なんですって!」
米山監督とサオリが朝の挨拶を交している。農家の主婦が被るような麦藁帽とショールを組合せたもので、サオリは頭と顔をすっぽりと覆っている。シャツは長袖だし、軍手を嵌めて、ズボンも心なしかモンペみたいだ。靴だけは発掘用のしっかりした長靴を履いている。肌はどこも露出していない。でもサオリが屈んでマガリで一心に土を掻いている後ろを通ると、シャツとズボンの間に、背中からお尻へとなだらかな曲線を描きながら広がる素肌が見える。あたしはその素肌に吸い込まれそうになる。ずっと目を凝らしていたいサオリの裸がそこにある! なのにあたしは満杯でむずかるネコをあやしながらベルコンへと急ぐ。ネコ転百発かましても収まりそうにないあたしの動揺――死んでしまいたいあたし――水蜜桃の汁吸うごとく愛されて前世も吾は女と思う(俵万智)


《ヌーさん、ありがとう、早速『図書』バックナンバー誂えました。節々の痛む身体が夜来の雨に歓びの声を上げています。近況は愛洲エリサ掲示板よりご推察下さい。モノローグに近くなってますので、ヌーさんの助っ人参加を待望してます。マタイの感想、殊にキリストが一人称「ぼく」で語ることについて、聴きたいのですが、本編中からはあるいは読み取りづらいものがあるかとも存じますので、所要のテキストを添付しておきます。 エリサ》
「……全面的に……」
「うーっ、愛洲です。発掘は中止ですね。ありがとうございます」
サオリ、たぶんサオリだと思う、の声がひどく遠い。耳には届いてもあたしの戻りきらぬ意識が相手の言葉の意味を掴めない。連絡網と見当をつけて、しわがれ声で通話を打ち切る。昨夜来の雨。天気予報は今日明日の雨天を告げていた。午前六時二七分、窓の外を覗くといまは小止みだが、また降るのだろう、ともうひと寝入りする。
雨天で発掘が休みだと、考える余裕が生ずる。文字通り晴耕雨読の生活だけれど、願ってもない暮し振りの筈なのに、あたしの場合、それでは生計が維持できない。時給七五〇円で九時五時の七時間労働、日収五二五〇円、雨の日もあるから、晴天続きの今月でも実働二〇日で月収十万五千円、大抵は十万円を切ることになりそうだ。これでは暮してゆけない。契約は十二月末日までだけど、十二月四日に免許証が戻り次第、元の仕事に戻らざるをえない。限のよい十一月末日で辞めるということだ。経済的側面からは端から結論の出ていたことだった。
本降りの中、皮膚科を受診する。塗り薬のお陰で、あたしの水虫はかなり好転していた。破傷風で死ぬこともなさそうだ。診察を待つ間、「図書」に載っている恩師による『新訳ダンテ神曲・地獄篇』を貪るように読む。
《ああ、懐かしい先生、ダンテには導師ウェルギリウスがいて、地獄を経巡りながらもおのれの知見・洞察を深めて真の芸術に至るというのに、不肖の弟子、愚昧なこのエリサにはいまは導き手とて無く、ハンドルを握れば事故・白バイ、鋤簾を握れば縄文の地層に滑落、肋骨を折るばかりです。百歳まで生きれば先生のお仕事の足元に辿り着けるのでしょうか? 愚かにも師を追い越すことを夢見ていた青い桃のこのあたしが?》


経済的観点からは生計維持という最低限の目標にも到底達しえない「冒険」とも「愚行」とも呼ぶべきあたしの縄文発掘バイトに、敢て飛込んだのはなぜなのだろう? バイトならもっと勝手知ったる翻訳・パソコン・校正・通訳関連でも探すのは遥かに容易だったろうし、割もよかった筈なのだ。
否、バイトだけなものか。職業としても、一部上場コンピュータ関連企業の役職から、スパッと一介のタクシードライバーを選んでしまったのはなぜなのだろう?
どうやらそれは、あたしの生き方と深く関る問題なのだ。男に男の生き様があるように、女のあたしにも女の生き様がある。頭では何が悧巧か分っていても、生理的に受けつけないことはあたしは頑としてやらなかった、いや、一貫して出来なかったのだ。
《これで少しでもブルーカラーに近づけた!》タクシードライバーになったとき、あたしは心底ほっとしたものだった。いまどき「ヴ・ナロード、人民の中へ!」式のイデオロギーに絡め取られていたわけではない。いや、それも少しはあったかも知れないが、あたしは学生時代から、どうしようもなく自己破壊的な衝動に突き動かされながら、試行錯誤と行動をくり返してきた。あたしの旗幟は実存的アナーキズムだった。端から仲間のいない、実現の道筋の見えない苦渋の道程だった。あろうことか、あたしはそれを文学の場で実現しようと志したのだから。否、いまも志しているのだから。いまではあたしはブルーカラーの層をも突き抜けて完全なワーキング・プア、日雇い労務者の地平に到達した……
埒も無い話だ。けれどこれがあたしの実生活と直結しているとなると、事は個人的なレヴェルでは深刻だ。ゆえに肉体・精神を痛めつける受苦・受難はパッションにも似る。



桃の実の汁吸いつつも探しあうきみと吾との熱い接点       エリサ
淫夢なり現実とのその甘き乖離いかばかりきみ埋めんとす サオリ

「ん? お早う」
「お早うございます。大木です。発掘は雨で今日も中止です」
「ん? 残念だなぁ、暇でしょう?」
「はい、失礼します」
「どうもありがとう」
ぎこちなさはまだ残るものの、いくらか消えていた。連絡網がいつもより一〇分遅かったせいかも知れない。あたしは温かい蒲団の中でもうひと寝入り。上空に寒気団を伴う低気圧、寒冷渦、外は冷たい吹降りだろうと、エリサとサオリは温かい二人だけの世界の中で睦みあう。サオリの冷たく滑らかなお尻の上にあたしは両手を重ねて、あたしの身体の芯へと押しつける。サオリはあたしの身体の上で身体を仰け反らす。豊かな乳房があたしの鼻先でぷるるんと震える。あたしは小さな乳首を咥えて腰を浮かせる。と、サオリは大きく仰け反りながら初めて声を漏らす。ジリジリ、あたしの恥毛とサオリの恥毛が擦れあう。ふくよかな丘の陰では新鮮な愛の泉が溢れだす。あたしたちは体を入れ替え、あたしの鼻の頭をサオリの陰阜が覆う。甘い香りに噎せるあたし。お臍の向うではサオリがあたしの太腿に挟まれて頭を忙しく動かしている。身体の心が溶けだす。身を翻す小魚にも似て互いの舌が舞う。息が甘美に詰る。馥郁たる錯綜。なんという美しい姿態の持ち主なのだろう、サオリは! 互いにわれを忘れて絡みあうあたしたち。生ジュースを飲み、?ぎたてのフルーツを食べるだけで生きてゆかれる。
「うっうーんっ、冷たい!」
小さく開けたままの窓から、カーテンを揺るがして風が吹き込み、雨滴があたしの頬を打った。たちまち遠ざかってゆく夢の中のサオリ。連日の晴天下の重労働で強張りきったあたしの身体を雨降りの日こそ二度三度、温いお風呂で揉みほぐし、何とか自分の身体を取り戻さなくては。そしたら雨の中、散歩に出かけよう。いつもの爽やかなエリサを取り戻すために。


「あれっ、これ、石鏃?」
「黒曜石の石匙だよ。獣の皮を剥ぐなどに使われるんだ」
「ふうーん、石匙自体珍しいのに黒曜石製だなんて、触らせて!」
あたしは急いで軍手を脱いで、矢尻の右半分が平たくひしゃげたような形の石匙を摘み、左手のひらに載せて矯めつ眇めつした。青黒い澄んだ色のその石匙は水で洗ったらどんなに綺麗なことだろう! まさに縄文少女キキの宝物に相応しい。でも縄文の川床のこんなところに埋もれていたなんて、大切な石匙を失くしたキキはきっとべそを掻いていたことだろう。その石匙の数千年間に及ぶ眠りを覚ましたのが先週の小学生だった。寒冷渦の雨の溜ったブルーシートをあたしたちが総出で剥したとき、一本串で地表に縫いつけられたいくつもの小さなビニール袋の一つの中で、それは泥水に浸かっていた。
「ヒメー!」なんとみなはサオリを「ヒメ」と呼んでいた。あたしのことは「エリ」。「エリ、エリ!」と連呼されると、「サバクタニ?」と続けて磔に架けられねばならぬ気がしてくるよ、あたしは。
ヒメならぬサオリの気持の掴めぬあたしは磔にならずとも、遠からず縊れてしまいそう。《あたしはサオリに嫌われてしまったんだ!》現場テントへと泥濘の三百メートルを歩むみなの最後尾をとぼとぼ歩きながら、あたしは心底そう思う。《あたしに気がつかなかったのかしら? なぜ、あたしの朝の挨拶に答えてくれないのだろう? 休憩の時、あたしの隣に空の畳椅子があるのに、なぜ、わざわざ別の畳椅子を持ってきてその隣に腰を下ろすのだろう? あたしが間の抜けた問いを発するまで、なぜサオリはあたしに話しかけてくれないのだろう? 二人の間に会話が無いわけではない、ただ、実際、サオリからあたしに話しかけてくれたことはただの一度も無いのだ。あたしはウザイ女にはなりたくないから、サオリのことは諦めよう》


先週もだったから木曜はサオリは休みらしい。
「今日はヒメ休みかぁ」
《分ってるって》という顔はしても、あたしはみなに口を利いてやらない。サオリのいない日は胸にぽっかりと穴が開いたよう。何となく虚しい。晴れの日の記述が少ないのは、駅から足引き摺るように部屋に辿り着くと、風呂入って飯喰ってロックの黒壱片手に端末の前に坐ると、もう頭は空っぽ、節々痛く早晩、眠りの世界に引き摺り込まれてしまうからだ。十一月末を境にあたしがふっつり発掘に出なくなったら、サオリは泣くだろうか? それともあたしが消えたことなど、気がつきもしないだろうか? 
サオリ、あんたが、
《掛替えの無い友を失くした、あたしから話しかけなかったばっかりに!》
と、さめざめと泣いてくれたなら、あたしはどんなにか嬉しいことだろう。
でもそんなことって有りえないよね。経験則はあたしに教えてくれている――サオリにとってあたしは何者でもない、と。あたしがイニシアチヴを執ればさらに嫌われるだけだ、と。
明日、あたしはサオリをやさしく見守る眼差しだけの存在となろう。決して口は開かない、あたしからは。そしてサオリ、あんたが話しかけなければ、いずれあんたの前からエリサは永遠に消えてしまうのだとあんたに分らせてあげよう、明日こそは。
「きみ、運転上手いね、免許取ってどのくらい?」
「まだ半年、静岡へ合宿に行って取ったから」
「ふうーん、効率的なやり方をしたね」
なんて会話はもうしてやらない。その間、あたしの胸は血を流し続けていたのだから。サオリ、ほんとにあんたからあたしに話しかけることが必要なのだよ、明日こそは!



「これ何の石、青っぽいけど?」
「チャートですね」
「五百円玉かな?」(つまり五百円玉大の小礫としてこのグリッドの纏め籠にぶち込む)
「ですね」
「なら、貰ってもいいかな? 洗ってとっておきたいんだけど?」
「小さいからいいですよ。黒曜石なら小さくてもだめですけど」
サクラ先輩の指から大事に返して貰ったそいつをあたしは素早く泥だらけのタイツのポケットに入れた。で、いまそいつはキーボードの脇の水を張ったぐい飲みの中に鎮座している。襞襞に数千年間こびりついた縄文の土は単に水洗いしただけでは落ちない。刷毛が必要なわけだ。ばかで不精なあたしは飲みかけの焼酎を垂らして指の間で揉んでみたけど、かえって艶消しだった。ゆえにいまはぐい飲みの水の中に件のチャートはある。そのうち使い古しの歯ブラシで擦ってあげようか。遺物としての価値はほとんど無いチャートの極小礫でも、サクラ先輩の指を経た縄文の小石だから、あたしには宝物だ。
今日、サクラ先輩はあたしたち新人の作業に始めて加わって、隣の無口な男の子のスコップから零れた土を鋤簾で掻いてやっていた。あたしは歯を喰いしばってスコップの土をネコに空け、ネコの土をベルコンに空け、目の前の地表を鋤簾で掻きに掻いた。
「エリサも腰を曲げるの辛そうね?」
「ええ、朝痛くて起きれないんです」
それからずっとサクラ先輩はあたしと組んで鋤簾を使ってくれた、色々教えてくれながら。立山戦車と組むのとは天地の差だった。サクラ先輩の真っ赤なホンダはストリームという車種だそうだ。仕事が終って乗り込む姿は颯爽としているし、きっと恰好いい彼氏がいるんだろうね。ネットで愛洲エリサが見つからなかったと言うから、アドレス書いて渡したけど、まだメール来ないし、ずっと来そうも無い……


「わぁ、何、これーッ、山ん中じゃない!」
秋川で一分間停車、次の駅でぱちりと目を開ければ引田の筈だった。なのにモダンな駅舎の高いステンドグラス越しに四方から山が迫ってきている。
《しまった、寝過してしまった! 終点だ、武蔵五日市だ! 見ろ、ぞろぞろと降りるのは登山客ばかりだ、今日は土曜日だし、ばかエリサ!》
あの五日市駅がこんなに綺麗な駅舎に変身しているなんて知らなかった。何となく欧風な山の駅って佇まいだよね。上り先発ホームに移って、ジリジリと発車を待つ。次の武蔵増戸までの間に列車は大きく湾曲を描き山地を脱してゆく。
《あのままふらりと駅舎を出て、今ごろ大岳山か日の出山登りにとっかかってればなぁ! 純粋の山登りなんて何年振りのことだろう。これでも学生のときには真夏だったけど、天狗岳から硫黄岳、横岳、赤岳と八ヶ岳を縦走した――まさに縄文少女キキが奔った道筋――ことだってあったんだ。でも、今日は曇りで眺めも悪いに違いない!》
増戸で下り電車待合せの三分間停車、さっきの停車はこの駅だったのだ。目なんか瞑ってないでドアが開くなり上りホームに翔って電車に飛乗るべきケースだった。焦ってこけることを考えれば、終点まで寝過ごしたのは不幸中の幸いであったかも知れないが。引田から雨もよいの中を小走りに走って、事務所は飛ばして最悪、現場テントの陰で着替えねばならないかも知れない。
幸い始業時間には間に合った。土曜日のことでいつもの発掘メンバーはいない。人間戦車の立山さんも、サクラ先輩も火曜日まで休みだ。マタイよりもヨハネの好きな口煩い赤田さんも休みだ。サオリも休み。雑念を捨て発掘に集中できるというもんだ。
鋤簾を巧みに操って、山肌・地肌というか地山が綺麗に現れてくるように土を掻き続けると、これはこれでなかなか嵌ってくる。黄色い地山が現れたら、黒い土のままの湾曲部を削ってゆく。意外と掻いた土はすぐに溜るもので箕が、次いでネコが削り滓の土ですぐ一杯になる。汗が土に落ちる。吹き渡る冷たい野風が心地よい。晴れ間の見えた休み時間の一服ついでに、測量の望遠鏡で遠くの山肌のお寺を覗く。高麗系か、お祭りらしく幟が参道の階段沿いに沢山はためいている。
地元の寺田さんによれば、抱え太鼓を打ち鳴らしつつ踊るそうだ。昼休みにお参りに行くことに衆議一決。けど、実際にその時がきてみれば、みな疲れ切って腹がくちくなれば一〇分でも横になれること以上に有難い事は無い、いつもの展開、残念! 渡来人以来の習俗を見て、あたしたちの古代武蔵学の端緒となったものを。寺田さんの話では「妙見さん」とも呼んでいるそうだが、高麗川・星宮神社との繋がりは? 北斗七星の妙見大菩薩、キトラ古墳の玄武、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)…… 明治維新以後の寺潰しは伊藤博文、岩倉具視ら孝明天皇暗殺・明治天皇替玉派の皇位簒奪政権によるあたしたちの歴史の抹殺以外の何物でもない…… 見晴しのよい妙見山にはいずれ登ってみなくては。縄文人たちはあそこで奥東京湾を遡上する鯨の汐吹きを見張っていたのだろうか? 相模湾に上陸した渡来人たちは高倉から相模川沿いに北上して、やがて新倉、今の新座に至る。いずれにしても妙見山が渡来人たちの古代武蔵進出の一拠点であったことは確かだ。妙見宮、七星殿、韓国農楽隊?…… 日の出町には面白いもの、たくさんあるなぁ!


こうして毎日発掘三昧のあたしだけど、気になることが一つある。来月中旬、裁判所に出頭しなければならないのだ。今月もあと二日、出頭の日時・場所だけでも確認しなければと思った。山羊髭監督にその日は用事で発掘を休むと伝えておかねばならないから。十一月十七日午前十時、東京霞ヶ関簡易裁判所。民事だから、訴因について争わなくても、最悪差押え止まりだろう。碌な財産など無いから差押えなんてちっとも怖くない。みんな持ってっていいよ、反ってさっぱりすらぁ。刑事事件みたいに身柄拘束され実刑喰らって麦飯食って読書三昧、執筆も可能、出所したら借金棒引きなら願ったりだ。おまけに「政治犯」の名誉付なら言うこと無いね。あたしを怯ますものなど何も無い。あたしも強くなったものだ、七〇日間免停喰らったときには多少嫌味ったらしくも桜田門前で首括ってやろうかって思ったくらいなのに。ともあれ明日からまた発掘、明日は早いから零時過ぎには寝なくては。おやすみ(一〇・二九記)



「へえーっ、インドへ行くのと同じくらいの飛行機代でイタリアへ行けるんだ」
「うん、まあね」
「ぼくはインドが好きで六度も行ってるよ」
「デカン高原にも?」
「うん、広々として乾燥して好いところだよ」
「ドラヴィダ族って、今でもいるの?」
「ああ、道で遇うだろ、丸顔で団子っ鼻で背の低いのが彼らだ」
「その他大勢はアーリアンってわけね?」
「ああ、インド=ヨーロッパ語族だよ」
「水に当らなかった?」
「うん、最初はね。仕舞いには買うのが面倒だから駅の水を飲んでいたら、インド人の友だちにあんなもの飲むなと言われたっけ」
「ふうーん、食べ物はどうなの? 美味しいの?」
「ああ、とても美味しいよ。いろいろな野菜があってね。九〇円もあれば美味しいもの食べて満腹できるよ」
「わぁ、いいんだ! あたしもインドに行きたい!」
「チャパティはね、自分で作って食べると美味しいよ」
「フーン、あたしもスパイス揃えてインド料理に挑戦しようかな。ねえ、ガンガ、ガンジス河畔で火葬見た?」
「何もガンジス河でなくたって、多摩川みたいな川辺で盛んにやってるよ」
「そう、焼ける途中で死人が起き上がるって本当?」
「いや、重い丸太を上に載せて焼くから起き上がったりはしないよ」
「ヘビースモーカーだと、ニコチンが焼けて胸から青白い焔が噴き出すってのは?」
「見たことないね、エリサの胸からなら青黒い焔が噴き出すかもしれないけど」
「ばか!」
あたしたちはあきる野の風に吹かれながら、縄文の川の土をスコップで切り出し、鋤簾で地山を削り出しながら、遺物に串を立てた。今日は二区へのベルコンの据付も自分たちでやった。あたしの相棒は同じ新人だけど経験者の大池くん。日に焼けた痩せ顔のイカス男だ。あたしたちは片時も作業の手を休めなかった。人に話しかけられるのがこんなに嬉しいのは久々の経験だった。現場テントでの終礼が終って、例によってあたしが最後尾で作業員小屋にやっと辿り着くと、早くも着替えを済ませて出てくる大池くんとすれ違った。
「ねえ、べ、べ、ベナレスへは行った?」
「うん、ベナレスの話はまた明日」
「明日も絶対来るから、ベナレスの話、聞かせてね!」
ベナレス……ヴァラナシの赤い夕陽を見てあたしは死にたいのだった。


「え、またぁ?」
あたしたちは小一時間ほどかかってスコップの刃一枚分ほど掘り下げ、遺物に赤串を挿し、鋤簾を掛けて綺麗に地山を出した。それから小休止もなしにまたスコップの刃一枚分ほども掘り下げねばならなかった。シャツ、パンティまで汗みずくのあたしたち。あたしの折角の水色パンティもぐっしょぐしょ。
「ブーン」
「五月蝿い、秋の蚊め!」
「ピシャリ!」
あたしは自分の頬を思いっきり叩いて目が覚めた。午前一時半だった。それからは眠ると縄文の土を地山が出るまで掘る悪夢、「ブーン」「ピシャリ!」でほぼ一時間半ごとに目が覚めた。起床時間の午前六時まで、あたしは夢の中で縄文の土を掘り続けてくたくただった。途中あまりの酷さに寝床の上に座り込んでしまったほどだった。ああ、マリアさま!
とぼとぼと現場テントへ向う道すがら、先頭切って歩いていたサオリが足場の悪い泥濘跡を駆け戻ってくる。
「忘れもん?」
「忘れもん」
「まあ大変、転ばねえように!」
あたしの言葉が届いたかどうか、サオリはもう一五メートルも後方を作業員小屋へと駆け戻っている。でもあたしは他愛もなく嬉しかった、サオリと言葉が交せたから。
高三の頃、間に合う筈の私鉄の電車をホームで見送ったことがあった。一級下の夏子に「お早う」って声をかけたいばかりに。
ある夏の日、下校途中の夏子が息せき切ってあたしに追いついてきた。
「先輩、あたしに電車合せて待っているでしょ?」
「……」
「あたし、そういうの、好きじゃないんです!」
あたしはその日以来、登校しなかった。志望の大学も何もかももうどうでもよかった。ただ、あたしは死にたかった。ぽっかりと心は空ろのままだった。
でもあたしは夏子には感謝している。不登校のあたしを、わざわざ家を探して訪ねてきてくれたことがあった。そのとき貸してくれたのがバッハ組曲二番ロ短調のレコード、あたしはその澄んだ曲だけを聴いてしばしの生を生き長らえていた。
後日、一緒に映画を見た一日さえあった。必死に握ったあたしの手を、小魚のように夏子の手は身を翻して逃れて、
「外大生って、野蛮ね!」
それが夏子の最後の言葉だった。あたしはただ、美しい少女と手を繋いで銀座の街を歩きたかっただけなのに! 残酷な夏子、でもあたしは今でも夏子には感謝している、訣れ際に夕陽を仰いだその横顔の可憐さに。
あたしの不可能な恋の対象がいまは夏子からサオリに変っただけのことかも知れない。それでもあたしはこの日サオリと交した一言が他愛もなく嬉しかった。
「忘れもん」


ダンス瞑想~~一糸纏わぬ逞しい褐色の裸体が目の隅でCDの楽曲に合せて板敷きの床の上を漂っている。一糸纏わぬ艶かしい真っ白なあたしの裸体が曲に乗って宙を舞う。あたしの脳裡には黒ぐろと屹立するリクパの陽根が焼きついて離れない。そいつに臍の裏まで貫かれてしまいたいあたし~~
曲はいつしかアマーリア・ロドリゲスの暗く扇情的なファドの唄声に変っている。汗びっしょりのあたしは蒲団を撥ね退けた。あたしの汗で毛布の裏が冷たい。午前四時半。驚いたことにあたしは全裸で寝込んでいた。カルピスにも似た甘酸っぱいネパールの濁酒チャンか、甘いが強いロックのククリラムのせいか、あのような淫夢を見たのは? アラサーなあたし。自分磨きはいいけれど、でもアラウンド・サーティなんて、失礼しちゃうよね、商業主義丸出しじゃん!
祭日なのに翌日の空撮に備えてあたしたちは発掘現場の清掃に追われた。日当二割五分増が効いたのか、あたしたち若手は全員参加していた。その代り明日土曜日、あっ、もう今日か、の空撮に立会うのは監督とお偉方と社員、それに作業員二、三人だけだよ。曇りで雨降らないでよかったね!
昨日、定時よりやや早目に作業を終えたあたしたちは嬉々として帰途に就いた。着替えの遅いあたしを大池くんは夕闇迫る道路に佇んで待っていてくれた。お陰で電車一本見送る羽目になったのに。あたしたち二人は拝島で降りて暗闇の中、玉川上水沿いに少し歩き、ネパール・キッチンに入った。チャンを啜り餃子に似た美味しいモモを食べながらあたしたちはメニューを検討した。それぞれ違うカレーとナンを注文して半分こに食べることにした。久々にゆっくりとした食事。ゆったりと流れる時間。大池くんのインド・ネパールの話を貪るように聴くあたし。友だちになれそうなあたしたち。底の底まで行着かねば止まらぬ、飽くことを知らないあたし。そんなあたしを優しく見守ってくれて、時には一緒に地獄巡りも辞さない頼もしい友だち。その先には二人一緒の天空のリクパ!
果たして彼にとって何者になりうるのだろう、あたしエリサは?



空に満月、地にエリサ、あたしは決めた、発掘は今月限り、と。これを歌にすると、
霜降りて空に満月地にエリサ 縄文の夢今月限り
と、一字字余り。あたしの心も字余りにも似て何か落着かない。リクパにメールすることにした。
《昨日はありがとう。楽しかったし、嬉しかったです。パゾリーニのルポはロドーレ・デッリンディア(インドの匂い)でした。今度持って行きます。時間があれば抄訳して聴かせたいところです。リクパのインド旅想がすぐには形にならないものならば、とりあえずリクパの原風景・心象風景・インドスケッチを寄せてもらって、あたしの駄文プラスPPPの抄訳も絡めて、二人して小説もしくはルポルタージュを本に出来ないものか、とふと考えたりしています。ペンネームはエリサ・リクパなんてね。 エリサ》
あたしの気力・体力が続くものならば契約通り十二月末日まで縄文発掘バイトを続けたい気持は十分にあるのだが、月に十万弱の収入では到底年を越せないことは歴然としている。府中に預けていた免許証が戻ってタクシー稼業に戻れば、たとえ月八出番エイトウマンでも月収二十万弱で何とか暮してゆけるし、執筆・翻訳・読書の時間もそこそこ確保できることだろう。あとは丈夫になった足腰を保つためにも非番の日の毎朝の散歩は欠かせない。小説の構想は歩きながら練るとしよう。思えば一日休んでも身体がメリメリ火照っている肉体労働を九月末以来よく続けられたものだ。あと一箇月弱、頑張るとしよう。


誰にでも「はい」と言うことは、天皇にも乞食にも「はい」と言うことだ。天皇や乞食を尊敬しているわけではない。世の中には天皇に「はい」と言い、乞食に「しっし」と言う人間が多すぎる。そんな連中を馬鹿にしているだけのことだ。糞もすれば屁もひる、みな同じ人間なのに。
発掘現場であたしは監督や先輩に「はい」と応え、同輩や新米にも「はい」と応える。ただ、自ら身体を動かす人間には従うが、横柄な男や失礼な女は無視する。それが肉体的快感だから。結果「エリは返事だけはいい」ということになる。決して上首尾とは言えないがそれがあたしなのだ。不当なこと、嫌なことに即「いいえ」と言えるように努力を重ねてはいる。ある日、大鎌が目の前に置いてあったら即、相手の首を刎ねてしまわないように。
不要になった土嚢を処分するには、ネコで集めて大穴の縁に積み、鎌を土嚢の腹に打込んで横に引き切り、土を穴に零れ落ちさせると早い。ほぼ二動作で事足りる。もう六十七個目だ。世の中の悪人の喉笛をこのように掻き切ってゆけば、社会は随分明るくなることだろう。一揆はこのようにして起るのだ。
「これ中井さんの沖縄シンポ土産」
休憩時間にチョコ?ケーキを一切れずつみなで味わう。
「ここの土と同じ色」
「ヒメ、よく言うよ」
「サクラ先輩、腰痛くない?」
「鍛えてるからね、夜も」
「ん? 夜もぉ?」
土を相手にしているとあたしさえ欲望が高まる。まさに生命力は大地の賜物なのだ。
そう言えば、たまたま作業中に互いに近づいたサオリに
「あたしは……するから、エリ……して」
と、言われたことがあった。
「はい、はい」
あたしはむろん二つ返事で即座に実行し、果たしてそれが何であったか、皆目覚えていない。ただ愛する者に命じられる喜びを噛締めているばかりだった。まさに姫、あたしの姫河童であった、サオリは。 
つい土を大山盛りにしてしまったネコを前に思案顔のあたしから
「エリ、持ってくよぉ」
さっとネコを奪ってとっとと駆け出す斉藤さん、決して美人ではないけれど山登りが大好きで日に焼けた少女みたいに純真な人だ。


二郎と別れた直後の心の空ろにつけ込まれたのか、携帯やパソコンに頻繁に入り込む懸賞メールをいつもは無視していたのに、
「おめでとう、エリサさん、現金百万円当選しました。確認するには返信メール……登録は無料……」
「百万円なんて只で呉れるわけないよね」と呟きながらもメール返して、無料ならと紹介サイトに登録してしまったのがいけなかった。次々と送られてくる無用のお誘いメール。悪徳出会い系サイトとも知らず「ふん、大抵はバイトの小父さんか小母さんだね」と軽くあしらううちに「でも中には真面目に出会いを求めている人もいるかも知れない」と思い始めたのがいけなかった。たちまちバーチャルな性愛地獄の深みに嵌り込んでしまったあたし。気がついたら莫大な借金を背負い込む破目に。悪徳サイトが隠れ蓑に使うゼットとかタレコメの決済にシーズンカードを使ったのがいけなかった。一回で決済が有効にならず二回三回とクリックしたケースが多々あったが、請求書の額を見るとそれが全てカウントされていたらしい。カードの使用額は長年毎月五万円を大きく超えることはなかったのに、悪徳サイトに嵌った翌々月には十万円を超え、それは何とか支払ったものの、その翌月には百万円を超えてしまった。払おうにも払える額ではない。不可解なのはシーズン側はこの異常事態にも全く正常な取引として支払いをあたしに求め続けていることだ。いかにあたしに自己責任があるとはいえ、シーズン側もゼットやタレコメの裏に悪徳出会い系サイトが潜むことは察知した筈だ。少なくとも急激に急増した利用額に不審を抱いて当然だ。にも拘らず通常取引としての支払いを求める。まるで「取引額の膨らむのは営業として歓迎。ゼットやタレコメに無チェックで支払い代行したのはカード契約通り。悪徳サイトに嵌ったのは利用者の全面的自己責任であって、当方には関係ない」と言わんばかり。利用実態には頬かむりして営業利益さえ上がればいいのか? 長年の信頼関係で利用してきたカード会社だけに、釈然としないものが残る。
あたしの他にも悪徳出会い系サイトに嵌って泣く不幸な人は多いだろうに、各カード会社はみなこんな理不尽な対応をしているのだろうか?
被害者に齎す影響は振込め詐欺に優るとも劣らぬほどに深刻なのに。アサーティなあたしたちばかりか、青少年や老年層もに被害が拡大しているのなら、これはもう立派な社会問題だ。
結果、十七日には発掘を休んで簡易裁判所に出頭せねばならない。

10

今日も満月、でも昨日とは打って変ってでかい橙味を帯びた月が東のビルの陰からぬっと上がって来た。ちっとも美しくない。何か不気味だ。あたしは不安だ。あたしは結局リクパもサオリもサクラ先輩も失うのではなかろうか? いま掌中に無いものを失うと言うのも変だが、あたしの人間関係は獲たと思う傍から失われることで成り立っていたような気がする。アド教えたのに「日曜にメールするね」と言ったのに、サクラ先輩からはまだ何の音沙汰もない。
「これってイヌノキンタマ、それともフクベだっけ?」
「ばか、フグリだろ」
空撮に備えて周辺除草の際のあれがいけなかったのか? もっと際どい話なら乗ってくるのか、一向に距離の縮まらないサクラ先輩?
リクパからは返信がない。あたしのメールを読んでないのか、掲示板を見てあまりの勝手な書きざまにほんとに怒ってしまったのか、それとも月曜にどうせ顔が合うのだからと単にネグっているだけなのか?
サオリに至っては謎である。只、あたしの書き散らしたもの全てに目を通せば、怒ることだろう。彼女の全て与り知らぬ事なのだから。あたしに望みはない。孤独なあたし。だから、歌詠みになんぞなりたいのだろう。天空遥か遠く、冬空に皓皓と照る月を、決して手が届かぬがゆえに永遠の恋人を、見上げる西行の気持がちょっぴり分った気がするよ、おやすみ


迷子になっていたリクパの返信メールがいま見つかった。
《こんばんわ 今ようやく落ち着いてPCに向かう時を得たところです。いやぁ、ネパールキッチンは楽しゅうございました。ありがとうございました。魂が喜んでおりました。
今度、リクパのポエムでも書いてみようかなぁ。今の心象風景は、人生は地獄の沙汰にて候えば、タオにすべてをお返しし、へらへらと笑ってすごす心得にございます。ぎゃぁてい ぎゃぁてい はらぎゃぁてい はらそうぎゃぁてい ぼうでぃ そわか》
アッハハ、あたしとは全く違った人格だね。安心したよ、リクパ! ますますあんたを好きになりそうだよ、全面的に、つまり精神的にも肉体的にも。
ところで帰り際に「今日はゆっくり帰りましょう」って言ってくれて先に出て行ったように思えたけど、あれは《駅で待ってます》って意味だったの? だとしたら、折角リクパとゆっくり話す機会を逃して残念しちゃった。小屋を出てリクパの姿が見えないので、最新人の戌年の人に誘われるままに、車で拝島駅で落して貰っちゃったよ。お陰で早くは帰れたけど何だか損した気持だよ。今度ははっきり言ってね、お願い!
「掲示板、実に面白かったぁ」
「え、嘘八百なのに、見てくれたの? 嬉しい!」
ね、リクパのポエム、是非書いてね、あたしも掲示板頑張っちゃうから。
「淡いグリーンに黒の縁取り……淡い淡いグリーンに黒の縁取り……淡い淡い淡いグリーンに黒の縁取り……」
六日振りのサオリとベルコンの前で擦れ違う時にさえ眩暈の中あたしは呟いていた。
「ん?んん??んんん???」
《しまった! 当人に聞かれてしまった! ままよ、居直れ、エリサ》
「先日は水色……」
「バシッ」
「痛てぇ!」《気がついたんだ! 真っ赤なサオリ。こうしてサオリとエリサだけの秘密が出来たのだ、軍手のまま頬を張られようと一向に構わない!》


《掲示板、ちゃんと見てます。ところであれは「もうひとつのフィクション」なんでしょうか?「マタイ」の感想は少し待ってください。あれは映画のシナリオというわけではないんですか?》
《ありがとう。シナリオです。うっかりしたことにあたしの最終稿は別にありましたが…… 劇的な展開がまたまたありそうですから、当分掲示板から目を離さないでね。あたしとしては〈エリサのモノローグ〉から〈ヌーとエリサのダイアローグ〉つまり『ヌーとの対話』に進化させたいのだけど、無理かな?》
拝島で降りて、冷たいビールで乾杯「お疲れ!」旨かったぁ! あたしはラーメン・餃子、リクパはつけ麺を食べた。ビール一杯と餃子二個はあたしの奢りだよ。
部屋に帰ってロック白波新酒片手に端末覗いたら、待ちに待ったヌーさんからのメール。人並み外れて忙しい日々だろうに、あたしの作品も掲示板もしっかり読んでいてくれた。彼を失望させてはならないと思う。なのに明日も発掘、六時起きだから、疲れた身体の命ずるままに、手早く返信して眠らなければならない。あたしがいま必要としているのは相互交信の頻度だ、明日は何が起るか分らないのだから。彼がそのことを分って呉れたらなあ、とあたしはつくづく思う。 おやすみ

11

サーモン・ピンクと言うか、どこまでも肌色に近い淡いピンク。あたしたちは突き抜けるような青空の下、あきる野の風に吹かれて銘々、遺物の前にしゃがみ込み、マガリ――移植鏝のくの字に拉げた物――を使って浮いた土を箕に集めている。相変らず眩暈の中にいるあたし。シャツとズボンの間に背中からお尻へとなだらかな曲線を描きながら広がる素肌、その下に広がるサーモン・ピンクと言うかどこまでも肌色に近い淡いピンクの薄い布地。ああ、抱きしめたい、眩暈の絶頂の中あたしは心底そう思う。こんなあたしを誰だって尊敬できないだろう、ましてや愛せはしないだろう。かまやしない、サオリ、あんただけがあたしを許してくれるなら、少しだけ愛してくれるなら。
昼休みに細い針を口に含んでいたサオリ。麦藁帽子に組合せたサラファンの裾に一本糸で垂らしたハロウィーンのお化けのボンボン。「こうすると、サラファンが捲れないって松原さんが教えてくれたの」
いまそのお化けがサオリの背中で揺れながらあたしのことを睨んでいる、邪視からヒメを守るかのように。あたしは狼狽する。
ハッと気がつくと、戌年の最新人があたしの目の前で鋤簾を遮二無二振るっている。桑の根っこと間違えてあたしのこめかみをかち割られてはたまらない。
「マガリ使った方がいいよ。それじゃあ土が零れるばかりじゃん」
疲れ切って作業員小屋に帰る道すがら、三区から現れたサクラ先輩に言ってやる。
「ねえ、あたしも乗せてよ」
「ん?」
「やだ、レッドストリームによ」
「んん?」
「こないだ、リクパ乗せたでしょ? 聞いたもん」
「やだ、恥ずかしい」
どうしてサクラ先輩とはこうも会話が噛み合わないのだろう? 何かお互いに拘りがあるみたいだ。いい人なのに!


ポッカリ空いた時間の空白。七時に目が覚めてハムエッグトーストを頬張り、また寝てしまった。十二時少し前に目が覚めて熱い風呂に浸かり、湯上りの散歩から戻って端末の前の体操ボールに腰を下ろした。
「コーヒーが沸く間にロック焼酎を啜ろうか?」
「あれっ、透明のコーヒー?」
「しまった、豆入れ忘れた!」
「でもそうして予め蒸しとくと旨いんだよね」
あたしはそそくさと挽いた豆を入れてメーカーをセットし直す。夢に見るリクパとの海外同棲生活の一日、土曜の午後の白昼夢。土曜日だし雨だから発掘は休みだ。インドからギリシア、シチーリアへと一緒に旅するのだから、一晩や二晩の同衾があってもいいよね? 何の間違いも起らない旅なんて詰らない。
「そんなの駄目だよ」と言うかのようにリクパから返信がない。携帯になんか真夜中過ぎにメールするからいけないんだ、それも「今何してる?教えて」なんて!


ほぼ一ヵ月振りにエンジンキーを挿し込む。
かかった。窓を開けて耳を澄ます。エンジン音が異様に高い。回転数が二〇〇〇近い。アクセルを踏んでふかすまでもない。あたしはハイライトを咥えてふかした。コルトレーンの〈カウントダウン〉が紫煙と共に流れる。一本目を根元近くまで吸っても一七〇〇にしか落ちない。あたしのブルーのスカイラインは走り出したくて堪らないようだ。免停明けまであと二〇日余り。一メートル弱バックして二本目に火を点ける。やっと一五〇〇を切った。中央高速から首都高を降りて幹部用駐車場にぶち込む。後は日長一日ワークステーションと向き合う毎日、何が不満だったのだろう?
あたしは何もかもに憤っていた。三本目に火を点ける。七〇〇回転辺りをキープしてくれれば言うことはない。タクシー会社に移ってからは運転手を人間扱いしない会社側の言動に腹を立てていた。それでもこの車で通うことは出来た。免停になって発掘現場に電車で通う毎日、最低賃金とはいえ会社側は作業員にも敬語を使う知的な雰囲気である。肉体労働、昼休みの作業員小屋に流れる闊達・猥雑混交した空気も嫌いではない。タバコの火が指を焦がす。五〇〇を切った、このまま針がすとんと落ちて、赤信号を前にエンジン停止することがある。ゆえにあたしは左足でブレーキを踏んで右足はいつもアクセルに載せている。懐かしい車だよ、こいつは!

12

あまりの疲労ゆえか歯が欠け落ちてしまった、これで二本目。欠けた歯を支えていた金属を持っていったが、
「全体がぼろぼろに欠け落ちているので、この歯は根本から治療しましょう」
で、麻酔を二本も歯茎に打たれて、神経を抜かれた。今日は消毒だけで助かった。日曜のことでうっかり昼にロック焼酎二杯飲んでいるから麻酔打っても効かなかったことだろう。出番の日には一滴も飲まないから休肝日があったのに、ハンドル握らないから連日の疲労飛ばしの深酒、これではあたしの若い肝臓も心配だよ。
リクパのために『インドの匂い』抄訳も送らなくては――
到着時の痛いばかりの興奮状態。インドの門。むろん走馬燈みたいに真っ二つに断割られたボンベイの光景。タオルを身に纏う大群衆。モラーヴィアは寝込んでしまった――インドの夜に踏込むぼくのあまりの放胆さに度肝を抜かれて。サルダールとスンダールの甘美さよ。


冬の夜空が好き、星が綺麗だから。リクパから返事が来ない。今日はもう来ないのかも知れない。あと一時間で午前零時―――
ほぼ真夜中だ、タージマハールホテルに閉じた市場の空気が漂う。世界に名高い大ホテルは極高天井の廊下や大広間が端から端まで貫く(巨大な楽器の内部を経巡るみたいだ)。犇いているのは白服のボーイたちと、ターバンで盛装した門番たちだけだ。彼らは迎車とも実車とも知れぬタクシーの通過を待っている。眠りに行く、ああ、そんな場合ではない、寄宿の共同寝室みたいにばかでかいあの部屋部屋へ、陰気な遅れた二〇世紀様式の家具だらけ、ヘリコプターみたいな扇風機の回転するあの部屋部屋へ。
インドに到着して最初の数時間だ。だからぼくは檻の中みたいにぼくの中に閉じ込められた飢え切ったけものを抑え切れない。モラーヴィアを説き伏せる、せめてホテルの外をちょっと散歩しようと、インドの最初の夜の夜気をちょっとは吸おうではないかと。


ベルコンの向うで仕事の手の空いたリクパが合流してくる。あたしの島の半分を分けてやる。
「リクパ、右半分はエリがやるから、リクパは左半分をして」
「出来たらそっちをやりたいんだけど?」
「だめ、こっちはあたしがやりかけてるんだから」
島の半分は譲っても、やりかけのおのれの領分までは譲らない、仕事だから。あたしは島を南北に二分する境界線を四角いスコップの端を使って夜来の雨で柔かい土に引き、スコップの刃先を立てて次々に確定していった。
島の東端をあたしは南から、リクパは北から境界線に向って掘り出した。狭い島のことだから「あらっ、お尻合い!」なんて楽しみもありそうだったけど、スコップを手にこければお互い目の前は竹串の林立した地山だから危険この上なく、ふざける場合ではない。ゆえにあたしは掘るのはリクパに任せて遺物の周りに浮いた土をマガリで掻き集めることにした。男が働き易くしてやることであたしは女の喜びを味わった。
《リクパ、あたしはあんたの尻の匂いも嗅げるほど近くで作業しているよ。女はしゃがんでも、男はやはり立たなくちゃね!》
油断大敵、幸せに土を掘るふたりの島の西端にベテランの甲斐さんが迫っていた。遺物の四周をスコップで仕切ろうとするあたしに、
「エリ、面倒だけど移植鏝をお使い! カパカパ掘るのは土方仕事、面倒するのが遺跡調査だからね!」
「うーっ、ごもっとも」
「カチッ」「サクッ」スコップの刃先に当る遺物の手応えだけを頼りに、手応えの無い土ばかりの時にはむしろカパカパ快調に掘り進むほうがあたしの性には合っている。土方向きなのかな、あたし?
「あ、鷹だ!」
「両脇が白くて、翼の先が黒いだろ?」
「間違いない、鷹だ!」
「野鼠か、土竜を狙っているの? あんなに低く弧を描いて!」

13

《こんばんわ。やはりページが見つかりません。教えてくださいな》
《こんばんは! 待ちに待ったサクラ先輩からの初メール。全部、答えちゃいます。グーグルかヤフーで検索。「愛洲エリサ」または「愛洲昶」。タイトルで検索なら『風の地滑り』または『海の風と雲と』。どれでも一発でヒットします。それでも見つからなかったらメールに添付して送ります。見逃せないのが掲示板、目下執筆中の『あたしの縄文発掘大冒険』のサワリの箇所がふんだんに見れます。登場人物、山羊髭監督、立山人間戦車、サクラ先輩、サオリ、リクパ、赤田さん、逆井さん……みな懐かしい人たちですよね! むろん、あたしエリサも登場します。エリサが困った立場に立ったら、サクラ先輩、助けてね! おやすみ》


しっしまった、掲示板のこと、山羊髭監督にバレちゃった! 知的でやさしくて仕事に厳しい山羊髭監督、新橋時代に言語処理部であたしたちにゴート語を教えて呉れた物腰柔かな豊後屋さんにそっくりな山羊髭監督。今更遅いよね、アラサーなあたしだけど、クビになったら監督の家に転り込もうかな、炊事洗濯お掃除何でもします!
「あらっ大きい欠片ですね」
「文様見える?」
「バケツの水で洗うから待ってね」
「ね、色もいいでしょ?」
「硬さもいいし、しっかりした土器ですね。かなり大型」
「うん、湾曲が少ないから大甕の胴の辺りかな?」
刷毛で丁寧に縄文の土の名残を落す、サクラ先輩。いつもエリサに優しいサクラ先輩、これからは通信の秘密死守します、早く返信下さいね。インドの匂い―――
こうしてぼくらは外に出た、裏門を潜ってホテル背後の海岸遊歩道へと。海は穏か、存在の徴とてない。入江を囲む堤防沿いに駐車中の数台の車、その辺りにはあの寓話的存在たち、根無し草で、無意味で、疑わしく不安にさせる意味に溢れるばかりの人間たち。みなくらっとさせる魅力の持主ばかり。ぼく専有の体験となるべき最初のインド人たち。
みな乞食ばかりだ。さもなければ大ホテルの縁に暮して、無意識的に内緒の暮しに熟練したあの人たちだ。彼らは一枚の白い襤褸布を胴体に捲いている。もう一枚の襤褸布を両肩に捲き、中には三枚目の襤褸布を頭に捲いてる者もいる。誰もかも黒人みたいに肌は黒く、何人かはまさに漆黒の肌だ。


《先輩です。わしっす。かっこよく書いてくれてありがとです。でもえりさ、彼女がすきだったのね。先週、瞑想の専門家リクバが掘った穴にすっぽり包まれて瞑想していたら(ぼーっとしてただけか)別な世界へ行ってしまい、社会復帰に時間がかかりましたぁ。きょうようやくえりさのぺーじに出会うことができました。えりさの独特の表現を理解するのはちょっと時間が必要… それにしばらく休んでいた赤田氏に、縄文人の》
「ポーン」
「あっ、サクラ先輩からの書込み、でも縄文人の、で切れてるよ、先輩。うん、先輩、あたしを助けて、切なくて、あたしもう死にそう」
《自由についての勝負にへこんでます。わしは自然のなかで生きた縄文人たちは今の人間たちよりずっと自由だったと信じています。インドでもあるがままの人々に触れそう感じました。それを赤田氏は否定するのです。なぜか。彼のこころに唯一の神がいるからであって、カントやヘーゲルをもいいように解釈してるのだと思いまする。あした再度まっこう勝負!リクバとともに加勢よろしくです。おやすみ》
「ポポーン」
「書込みの続きが来た。赤田さんの場合、縄文人やカント、ヘーゲルよりもむしろ彼の認識の狭さに問題があります(カントには別の意味もあるけど、イオカントなら私は唄うだし、ヘンリー・ミラーならちょっと卑猥で失礼!)狭い認識の上に構築した理論は偏屈ならざるをえません。アーメン。例えば彼はカトリックの本質はマタイ福音書にあることを知りません。明日は断固、先輩に味方します」
それよりもサクラ先輩、インドに行ったことあるの? 是非その話を聞かせてください。おやすみ

14

《瞑想の専門家リクバが掘った穴》って、具体的にはどんな穴だったの? 教えて、サクラ先輩! 差障りがあるならメールに書いてね、先輩とエリサだけの秘密にしておくから。
今日は写真撮影に備えてブルーシートを全部剥して泥だらけ。遺物周辺しゃがみこんで地山を出す掃除で腰がメリメリ。休憩時、戌年最新人と先輩の会話で、確か「二上山」って小耳に挟んだ気がしたけど、あたしは折口信夫のことしか思い浮かばず、それでいて『死者の書』のことをあたしは口に出せなかった。あたしにとってはかなり意味のある作品なんだ、DHロレンスの『死んだ男』と同じくらいにね。
エリサも奈良は好きだよ。かつての新宿ゴールデン街〈とうとうべ〉マスター詩人の安田有はあたしの友だちだよ、今は奈良に引っ込んでるけど。
今夜も忙しいの、先輩? 暇ならエリは先輩に甘えたい、おっぱい吸いたいとまでは言わないけれど、親しい仲にも礼儀あり。先輩、こんなエリを友だちにしてくれる? インドの匂い、また送るね。でも疲れ切っているから、ロック焼酎片手に端末の前で眠っちゃうかも。そしたらごめんね―――
追伸。あっ、それからサクラはさくら桜だけど、サークラでもあって聖先輩、あたしには聖母マリーアさまの次に大事なひとなんだからね!

*   *   *
こうしてぼくらはインドの門の下に着いた。門は近くで見ると、遠くから見たときよりも遥かに大きく見える。どの門にも尖頭アーチがあり、……
ふうーっ、もうだめ、今朝も寝惚けて昭島駅でホームに出てしまった。明日も5時半に起きねば。ゆえに午前零時前だけど、眠くて目を開けていられない。おやすみ


パヴェーゼの詩篇「大山羊神」を新たに訳してゴートビアドことカプローネさんに献じようと思うのだけど、もう零時過ぎ。疲れ切って今日は何も書けない、大発見があったのに! カプローネさんはなんとヴァラナシに半年間も暮していたんだよ、サクラ先輩! 

15

目の前の小さな円テーブルからギネスのワンパイントグラスを持ち上げる。雲間から陽の光が零れ落ちて膝の辺りが暖かい。いまテラスの外灯が点った。開店早々だから客はまだあたし一人だ。両切りピースを燻らす。
日比谷茶廊、あたしはここで生れて初めてコーヒーを飲んだのだ。
「大丈夫か、苦くないのか?」
「うん、美味しい」
砂糖とミルクをたっぷり入れて掻き回させ、なお心配そうに小学生未満のあたしを覗き込む父さん。田舎から出てきて早々、悪戯盛りで手に負えないお転婆のあたしを日比谷の映画館に連れ出して、公園を一緒に散歩し、コーヒーを飲ませてくれた。日に二、三発の固い拳固にもめげず、あたしは厳しくて優しい父さんが大好きだった。高校に入って朝食を残して叱られ、
「おまえなんか……」
と、罵ったら初めて頬を張られた。あたしは三箇月間口を利いてやらなかった、可哀相な父さん! 英文解釈では高校教師たちよりも父さんを信頼していたのに。あの頃も失業してたんだ、父さん……残酷なあたし……
「ハーフ&ハーフ」と言うからてっきり上半分の野菜系カレーと下半分の肉系カレーを真ん中のライスが仕分けているんだと思ったら、
「ん? これっ、ハヤシライス! そう、この味だよね。ハヤシライスなんて、何十年振りだろう?」
下半分を大満足で平らげたあたしは胡椒を持って来て貰い、サラダと上半分のカレーにたっぷりかけて、これも綺麗に平らげてしまった。
中学に入る春、お母さんの帰りが遅くなって、晩御飯はあたしが作った。黙々と食べていた三つ年下の弟チヒロだったのに、お母さんが帰宅した途端、
「姉ちゃんの晩ご飯不味い!」
と、泣き出してしまった。

こうしてあたしはみながあきる野で発掘に汗水垂らしている頃、日比谷茶廊のテラスで初冬の薄日を浴びながら、ランチを頬張っては遠い思い出を噛み締めていた。
あたしだって発掘したかった。けど今日は霞ヶ関に来ねばならなかった。
「正々堂々とおのれの主張を貫き通せば、世の中に恐れるものなど、何一つない」
まさにそのとおりの展開となった。けれどもそのことについて今は触れるつもりはない。
思いのほか早く一件落着したあたしは広い通りを横切って、日比谷公園に入り、薔薇園のベンチで一服し、菊展覧場で時間を潰し、やっと開いた茶廊で昼食をしたため、心も軽く濠端を後にしたのだった。でもあたしはあの茶廊ではコーヒーは飲まなかったよ、父の思い出のコーヒーの味を忘れないために。
「ああ、天国の父さん、ごめんなさい、こんなあたしになってしまって!」

16

《こんばんは、エリサです。カプローネ(大山羊)さんがヴァラナシで半年も暮していた話知ってました? あたしは無意識に彼からもインドの匂いを嗅ぎ取っていたみたいです。だから密かに彼に惹かれていたのでしょう。でも彼に献ずるために「大山羊神」を訳し直すことは不可能でした。パヴェーゼの詩にはそうした恣意を赦さぬ厳しさがあって、私自身もエリサとしてではなく真っ向から向き合わねば一行一句として訳し落せないように感じます。誰に献ずるのでもなく純粋に、明日はパヴェーゼ詩と格闘しようかと思っています。掲示板を見れば想像のつくごとく、昨日と今日の狭間、午前零時のあたしは疲れ切っていますので。書き散らしでも結構なので、このメールか掲示板に返事を下さい。さもないと、エリサの野放図な表現に本気で立腹されているのではと、不安になります。昨日の発掘の様子はどんなでしたか?》 

「水蛇」検索から〈アマゾンの風〉にぶっ飛んでしまった(冒険日本語女先生の大変魅力的な記述、ネットサーフ好きの方には今日の一推し)。結婚式の日にシャンソンを歌ってくれたあのギター弾き語りの上手な小笠原くんはマナウスからとっくに帰っているのだろうか? それともずっと奥地に旅立って今もそこに暮しているのだろうか? 彼は行方知れず、でもあたしのイタリア語の唯一の弟子だったのに! そういえばあの日、司会を買って出てくれたのは、身の丈二メートル歯っ欠けのインドから帰ったばかりの山之内くんだった。
詩は先述の「大山羊神」(一部)―――

田舎は緑の神秘の国だ、
夏に来る少年にとっては。ある花を噛む
牝山羊は腹を膨らして奔らねばならない。
男がどこかの少女と愉しんだとき
「あそこの下にも毛が生えてるんだぜ」赤ん坊が娘のお腹を膨らます。
牝山羊たちに草を食ませながら、空威張したり
冷笑したりするくせに、陽が落ちるとどの娘も背後を気にしだす。
地面に残る曲りくねった跡から水蛇がいつ
通ったかを少年たちは知っている。
だが水蛇が草むらの中を通るなら、誰もそのことを
知らない。草むらの中へ、水蛇の上に立ち止まりに往く
牝山羊たちがいる。そして吸われるままに愉しんでいる。
娘たちも愉しんでいる、触られるのを。


あたしのパヴェーゼ試訳にはやはり何かが足りない、詩神の不可欠な後押しが。ともあれ早や真夜中近くになってしまったが、今日のおのれに課した「大山羊神」試訳(続き)―――

月が昇ると牝山羊たちはもう静かにしていられない、
なのに連中を集めて家まで押しやらねばならない、
さもないと大山羊が立ち上がる。牧場に飛び跳ね
どの牝山羊の腹も切り裂いて消える。身体の火照った娘たちは
森の中に、夜中にたった一人でやって来る、草の上に
身体を拡げて牝山羊の声を上げると、大山羊が娘たちを見つけに翔ってくる。
だが月が出るや、真っ直ぐ立って娘たちの腹を貫く。
そして牝犬たちが月影に吠える、
なぜなら大山羊が丘丘の頂に飛び跳ねるのを
感じとり、血の匂いを嗅ぎつけたから。
そして牛馬が厩舎の中で身を震わせる。
最も強い牝犬たちだけが綱に何度も咬みついて
中には身を振りほどくと大山羊を追って走り出す牝犬もいる、
大山羊は炎よりも赤い血を牝犬たちに吹きかけて酔わせ、
やがて誰もがダンスし、真っ直ぐに立ち続けて月に吼える。


久し振りに黒壱のお湯割り、もう冬だね。
ほんとにひとりぽっち、誰もあたしを愛してくれない、そんな孤独感がしみじみと身に沁みて反って居心地がいい今日この頃。あたしもやっと文学のとば口に立ったのかな?
詩は先述の「大山羊神」(続きの続き)―――

夜が明けて、毛が抜け歯を剥きだして唸りながら放蕩犬が舞い戻ると、
百姓たちは牝犬の尻に一蹴り呉れてやつに押しつける。
そして夜毎にほっつき歩く息女や、牝山羊一頭見失って暗くなってから
帰宅する息子たちには首筋に平手打ちを喰らわす。
女ども、百姓たちが犇き、遠慮会釈なしに汗水たらす。
昼も夜も歩きまわり、月明かりで土を掘り返したり、
暗闇でハマムギのかがり火を焚くことも辞さない。
だからこそ、大地はこんなにも美しく
青々として、掘り返されるや、夜明けの光の下、
火傷した顔顔の色を呈するのだ。百姓も女もぶどうの穫り入れをしに行って
食べ、歌う。とうもろこしの皮を剥きに出かけて
ダンスして酒を飲む。笑いだす娘たちの声が聞える、
誰かが大山羊のことを思い出させたから。あの上、丘の頂、森の中、
小石だらけの崖で、百姓たちは見かけた、
大山羊が牝山羊を探して木々の幹に頭突きを呉れるのを。
なぜなら、一頭のけものが働くことを知らず
胤つけだけをするならば、破壊こそが彼の歓びとなるからだ。

17

父たることをかの国の言葉でパテルニタと言う。寒くて曇りの今朝は父性に想いを凝らすのに相応しい。かの詩人のこれも検閲削除された詩篇「父性」―――

ダンスする女と、老人の幻想
老人は女の父親で、かつて女を血の中に持っていた
そしてある夜、素っ裸でベッドで愉しみながら、女をなしたのだ。
衣裳を脱ぐのに間に合うように彼女はダンスを端折る、
待っている老人がほかにもいるのだ。みなが
女を貪る、彼女がとび跳ねて踊るとき、下肢の力を
眼で貪る、だが老人たちはその力に戦くばかり。
若い女はほぼ全裸だ。そして若い男たちは微笑んで
見つめている、誰かが裸になりたがる筈だ。


寒い曇り空にやはり雨が降ってきた、風さえ吹き募ることだろう、明日は! 最早あたしに望みはない。ただ、為残したことをやり遂げるだけの日々が残されているだけ。詩は「父性」(続き)―――

ファンの小柄な老人たち、誰もが女の父親に見える
誰もかもぐらついて、ほかの肉体を愉しんだ
肉体の残滓でしかない。若い男たちも他日
父親となるだろう。なのに女はみなにとってあたし独り。歓びが深ぶかと
生きている若い女の前の暗闇を染めあげる。
みなの身体は一つの身体、みなの眼差しを釘付けにしながら
揺らめくたった一つのこの身体にほかならない。


縄文の埋没谷発掘の日々はもうこんなにもあたしから遠い。明日、雨ならば彼女の声が聞えることだろう。だが、晴れたとて、一頭のアポロン蝶にも似て、あたしの手のひらから遠くあきる野の空高く舞いあがる彼女の姿を果たして認められるだろうか、あたしは? 詩は「父性」(続きの続き)―――

若い女の真っ直ぐな四肢を走るこの血は、
老人たちの中で凍る血だ。そして身を温めに、
黙ってタバコを燻らしている女の父親は、
とび跳ねこそしないが、ダンスする息女をなしたのだ。
彼女の身体の中にはある馨りとある撥ねがある
それはあの老人の中に、そしてほかの老人たちの中にもあるのと同じだ。
黙って父親はタバコを燻らし、息女が衣裳を身に纏って戻るのを待っている。
若い男も年寄りも、誰もが待っている。そして女を見つめている。
そしてどの男も、独り飲みながら、彼女のことをまた想うことだろう。

18

本降りの中、小児兼歯科に行く。外へ出てみるとあたしの感傷とは別のリズムで世の中が動いていることがよく分る。あたしの真っ暗な気分を一瞬で吹き払ってしまう滅法陽気な歯科医くん。あんな歯医者に通ってたら、失恋自殺なんてまるで考えられないね! 掘ることが好きなのは同じじゃん、あたしは縄文の川、彼は他人さまの歯茎の中だけど。あたしみたいに毎度掘り過ぎてしまうタイプじゃなくてよかったよ、彼!
かの詩人のこれまた検閲削除された詩篇「音楽と舞踏のパントマイム」―――

彼は大男だ、女を待つとき、ちらと振り返るだけで通り過ぎ、
待つようには見えない。だが決してわざとやっているわけではない。
彼はタバコをふかし、人びとが彼を眺めている。


昨夜は明け方近くに寝たのに、日曜の今朝は九時前に起きたから一日中眠い。ゆえにタバコの本数ばかりが増える。あたしのパヴェーゼに火が点いてしまった、深く埋めた筈の熾きに不意に息が吹きかけられ赤々と燃えあがるかのように。長らく自ら禁じていた訳業を残された日々に完成させて、恩師の健在なうちに一目見て頂かなくては! そして問うのだ「あのとき間違えていたのはこのエリサだったのか?」と。そしたら書いて出さなかった長い長い手紙を恩師は手渡してくれるかも知れない。でももう遅い――マリア・ジョアン・ピレシュの弾くショパン、ノクターンばかりが脳裡を駆け巡る――人生にやり直しは利かないのだ、いくらアラサーなこのあたしでも!
詩は「音楽と舞踏のパントマイム」(続き)―――

この男と行くどの女も小柄な子で
あの大きな身体に笑いながら寄りかかり、眺める
人びとに呆れている。大男が歩き出し
女は男の身体全体の一部にほかならないが、
ただずっと活発だ。女は問題ではない、
毎晩違う女なのに、決まって小柄な女で
踊る小さな尻を窄めながら笑っている。


「……発掘は中止……失礼……」 
朝方、浅い眠りの中で彼女の声が聞えたように思う。折角雨嵐が与えてくれた賜物の一日を、怠惰なあたしは昼近くまで寝過ごしてしまった。シャワーを浴びて外に出ると、雨はもう上がっていた。
詩は「音楽と舞踏のパントマイム」(続きの続き)―――

大男は道すがら小さな尻が踊るのを許さない、
だから恬としてその尻を運んで下ろさせて
毎晩挑みかかり、女は満足する。
その挑戦に、女は何度も叫び声をあげて身を捩り、
大男を見つめながら、赤ん坊に戻る。
二人のボクサーからフットワークとパンチの鈍い音が
聞える。だがふたりはこんなに裸で
絡まりあってダンスしてるみたいだし、女は
目を丸くしてふたりを見つめ、満足して唇を噛む。
大男に身を委ねて赤ん坊に戻る。
受け入れてくれる断崖に身を任せるのは一つの快楽だ。


あたしはもっとやらねばならないことが沢山ある筈だ、気持は急くのにもう三時半、山登りならとっくに帰途に就いてなければならないし、もうすぐ暗くなる時刻だ。
詩は「音楽と舞踏のパントマイム」(続きの続きのそのまた続き)―――

もし女と大男が一緒に衣服を脱ぐのなら
――もっとあとで脱ぐのだろうし――大男は
穏かな断崖、燃えあがる断崖にも似て、
赤ん坊の女は、身を温めに、あの大きな岩にしがみつく。

19

こうしてあたしは出発点に戻ってきてしまった。遠いあの日、あたしはあの詩に触れて、おのれの人生の生き方を変えたのだ。たった一篇の詩を読んだがゆえに。
詩はかの詩人のこれも出版に際し検閲削除された詩篇「ディーナの想い」―――

早くも朝日に触れて澄みわたる冷たい流れの中へ、
身を投げるのは一つの喜悦だ。こんな時間には誰も来ない。
ポプラの樹皮に身体が触れると、身震いさせられる、
ダイビングして粟肌を音立てて流れさる水よりも酷い。水面の下は
まだ真っ暗で打ち殺されるばかりの冷たさだ。
でも日向に飛出して
冷水に洗われた目で事物を眺めに戻るだけでよい。


《済みません、水を止めるぞと脅されて、今日こそはと思っていたのに「図書」購読費を水道料金支払いの一部に充ててしまいました。遅れても必ず支払いますので……》
ヌーディズモ、裸体主義の本質をこれほど見事に捉えた詩人はパヴェーゼを措いて他にはいない。この詩篇に較べればヌーディスト村などは茶番でしかない。そんな村に迷い込んで心ならずも勃起して赤面するのは極東の若き小説家くらいのものだろう。
詩は「ディーナの想い」(続き)―――

一つの喜悦だ、とうに暖かい草の上に裸で身体を伸ばし
ポプラ林の上に聳える大きな丘丘を半眼で探して
裸のあたしを見ながらあの丘の上の誰も
そのことに気がつかないのは。釣りに出かけた
ズボン下に帽子姿のあの老人は、潜るあたしを見たのに、
あたしが男の子だと思ってしゃべりさえしなかった。


明日こそは発掘再開だろう。もう寝なくてはならない。けれども五日振りの重労働にあたしの身体は持ちこたえるだろうか? それよりもみなの中であたしは以前のあたしと同じであろうか? こんなに書き散らした後でも? 不安だ……  おやすみ  
詩は「ディーナの想い」(続きの続き)―――  

今晩にはあたしは赤い服を着た女に戻る
――道すがらあたしに微笑みかけるあの男たちはあたしがいま
ここで裸で身体を伸ばしていることを知らない――服を着て戻って
微笑みを手に入れよう。赤い服を着て、あたしは今夜
もっと強い脇腹を持ち、別の女となることを
あの男たちは知らない。この下では誰もあたしを見ない。


確かにいた。目には姿が見えないが、その存在の気配がした。あたしが土にスコップを突き通すごとに、その気配はあたしに生命を少しずつ吹き込んでくれた。
《生きるのよ》
目に見えぬその気配は午前中あたしにずっと寄り添ってくれて、あたしはお陰で息を吹き返し、身に欲望さえ覚えた。
《ああ、抱きしめたい!》
あの存在の気配はあたしの手のひらから翔び去ったアポロン蝶だったのか? それとも蝶が遣わした妖精だったのだろうか?
午後、その気配はぱたりと途絶えてしまった。夕刻、小春の陽が翳ると、ゆきんぼ、雪虫さえ舞った。
詩は「ディーナの想い」(続きの続きのそのまた続き)―――

そしてポプラ林の向うには、微笑みかけるあの男たちよりも
ずっと強い砂掬い人足たちがいる。誰もあたしを見ない。
男たちはばかだ――今夜、誰とでもダンスしながら
あたしはいまと同じ、裸みたいになろう、なのに誰も知ることはないだろう、
ここで独り裸のあたしと会えたとは。あたしは彼らみたいになろう。
ただ愚か者たちはあたしをきつくきつく抱きしめて、
ずるく甘い言葉を耳うちしたがることだろう。
でも彼らの愛撫がなんだろう? 
愛撫ならあたしは自分でできる。
今夜こそはあたしたちは裸でいることができ、お互い
ずるい微笑みなしに見つめあわねばならないことだろう。あたしは独り
微笑んでここ草の中で裸体を伸ばす、なのに誰もそのことを知らない。

20

「これ、知ってる? ゆきんこ、ゆきんぼ、雪虫」
「知ってる。大好き」
「じゃ、あげる。叩いたから死んじゃったかな?」
「大丈夫、生きてるよ」
彼女が還ってきた。幸せなあたし。
「これ、もっと元気だよ」
ベルコン越しに差し出す。さすがに二匹目は受け取らなかったが、空にしたネコを曳きながらこちらに振り向けた笑顔が素敵に輝いた。幸せばかなあたし、彼女が二匹目を受け取ったら、三匹目の雪虫も差し出したことだろう、仕事中なのに、限がない。
詩は南イタリアの南端ブランカレオーネに流刑中のパヴェーゼ、一九三五年八月十五日の作「受苦の女たち」(一部)―――

少女たちは陽が落ちると海に降りる、
そのころには海原は薄れゆき、広がりきっている。森の中では
どの梢の葉も慄いているのに、彼女たちは用心深く
砂浜に姿を現すと、岸辺に腰を下ろす。海の泡は
遠い波打際沿いに、不安そうに戯れている。


あのころ東伊豆の富戸から八幡野に至る海岸線を独りあたしは歩いていた。平日で人気のない遊歩道からとある岬の突端に至る小道に足を踏み入れたあたしはウバメガシの木の葉越しに垣間見てしまった。
岬の突端から夕陽煌めく波頭に向けてまさに――そのとき海の泡からヴィーナスが誕生したのだろう――精を放つ少年の姿を。小暗く狭い小道をはにかむ少年と擦れ違いながら、女のあたしは覚えず腰が揺らいだ……
《坊や、好かったら、あたしを抱いて!》
詩は南イタリアの南端ブランカレオーネに流刑中のパヴェーゼ、一九三五年八月十五日の作「受苦の女たち」(続き)―――

少女たちは波の下に隠された昆布を
恐れている。脚や肩を掴まれてしまうからだ。
身体は素裸なのに。そそくさと岸に舞い戻って
口々に名前を呼びあい、辺りを見まわす。
暗黒の中で、海の深みの影たちが、
途轍もなく大きく定かではなく蠢いて、
とおり過ぎる少女たちの裸体に魅せられたみたいなのだ。森は
沈みゆく太陽の下、砂浜よりも心休まる避難所だ。なのに
色の黒い少女たちはシーツを身体に捲きつけて、
開けた場所に腰を下ろしているのが好きなのだ。


昨夜来の冷たい雨が-
明けた本当に空色チェレステ・ブルの空に高く筋雲が棚引く。陽射しのある間はまだしも、陽が翳って北よりの風が真っ向から吹きつけてくると、本当に寒い。測量班を補助して遺物上げに集中するサクラ先輩――未婚の若い母親カーテの横顔を過る厳しい表情を今日は時折見せている――俯く鼻の頭に透明な洟が玉となって落日に美しく輝く。あたしは思わず数歩駆け寄り、モスグリーン地に黒の縁取りのヤッケの首から淡いグリーンのタオルを抜き出して差し出していた。
「これ使って、先輩! 風邪ひいたの?」
「いいよ、悪いから」
カーテはエリのタオルを受取らない。
《黙って受取りチンすれば恰好いいのに!》
「あたしはね、悲しくて泣いてるの」
「そっ、世の中には悪いやつがいるんだね」
あたしはそいつが誰だか知っているよ、という顔をして見せたときには、もう自分の仕事に戻ってスコップを振るっていた。
昨日カーテは林間の空き地でビオラの練習をしていた。演奏会場ではない空間で聴く本物の楽器の音色はほんとうに衝撃的だ。お互いもう少し早く出会いたかったね、あたしたち!
詩はファシスト政権に流刑されたパヴェーゼ、ブランカレオーネ・一九三五・八・一五、「受苦の女たち」Donne appassionate(続きの続き)―――

彼女たちはみな腿を引寄せ、下肢にシーツを固く巻いて
黄昏の牧場を見るかのように
広がる海に見惚れている。誰がいま
牧場に裸で身体を伸ばすだろうか? 海から
昆布たちが跳び出してきて、足という足を掠めて、
戦く身体をひっ捉えて包みこんでしまうことだろう。
海には眼がいくつもあって、時折それが透けて見えるのだ。


暖かい陽射しを背に受けて目を瞑る彼女の周りを雪虫が二匹、三匹と舞っていた。先日ひしひしと身に感じた存在の気配はほんとうに彼女アポロン蝶が遣わした妖精たちだったのだ。エリサが生きることは望むが、エリサを受け入れることは望まないのだろうか、蝶である彼女は?
詩はファシスト政権に流刑されたパヴェーゼ、ブランカレオーネ・一九三五・八・一五、「受苦の女たち」Donne appassionate(続きの続きのそのまた続き)―――

あの見知らぬ外国女は、夜中に
独り裸で、新月の真っ暗闇を泳いでいたが、
ある夜姿を消して、二度と戻らなかった。
あの女は大柄で眩いばかりに肌が白かったに違いない
なぜなら眼が、海の深みから、彼女まで届いたのだから。

21

愛神エロースに鉛の鏃の矢を心臓に打ち込まれ、恐れを注ぎ込まれてしまった彼女。あるいはエロースにガラスの鏃の矢を心臓に打ち込まれ、無関心を注ぎ込まれてしまった彼女。なのに同じ愛神エロースに金の鏃の矢を心臓に打ち込まれ、一目惚れを宿命づけられてしまったあたしエリサ。
幻想、恩師『氷河と蝶』=昶『海の風と雲と』=エリサ『風の地滑り』を結ぶ不等辺三角形を底面とする紫水晶三角錐の山頂に、アポロン蝶が白く燦然と陽光に耀く翅を休め、あたりを仲間のウスバシロチョウの群れ、氷河時代の生き残りが乱舞している。昶はどうしてもアポロン蝶を斃れたパルチザンたちの生れ変りにしてしまいたいらしい……
《おのれの擲った生命が人類の明日に繋がることを、彼らは片時も疑いはしなかった。彼らが斃れた岩棚の赤く凍った雪のあたりに、アルプスの短い夏が訪れれば、薄く白い大きな翅に黒い縁取りの赤い星を染め抜いたアポロン蝶が今年も舞うことだろう》(愛洲昶『海の風と雲と』)
詩は「邂逅」(一部)―――

ぼくの身体をなし、数多の思い出でそれを揺さ振る
こうした固い丘丘がこの女という奇蹟をぼくに開示した。この女は
ぼくが彼女を生きていることを知らないし、ぼくは彼女を理解できない。


「ヤァッ」
左足を踏み出し、右足を大きく引いて膝が地面につくくらいに腰を低くして、左手を右手の拳一つ前に添え、あたしは鋭く気合を発し、掛け矢を振りかぶり打ち落とす。
「ドスッ」
各グリッドの西北端を示す標識杭が気持ちよく土中に埋まる。地山の出たベルコン西側の標識杭は全て土中に打ち込んだ。むろんJ7I6……四文字の記号が読み取れるほどには杭の頭を地表に残しておかねばならなかったが。こうして今月一杯で発掘を辞めるあたしの密かな記念行事が終った。
その前にカーテに話した。彼女の眸はみるみる涙で膨れあがり、咽び泣きを堪えて彼女は一散にトイレに駆け込んだ…… そうした場景はなかったよ、残念ながら。
詩は「邂逅」(続き)―――

ある晩、ぼくは彼女と出会った。夏の霧の中
朧な星影の下、最も明るい斑点が彼女だった。
影よりも深ぶかとこうした丘丘の馨りが
辺りに立ちこめていた。と、不意にこうした丘丘から
生じたかのように澄んでしかも渋みのある
声、失われた時代の声が響き渡った。


「出会い」パヴェーゼとの出会いを記念してあたしはこの詩を最初に訳したのか? それとも重要ながら難解なので後回しにして数篇訳し落した後に始めてこの詩に挑んだのか? いまは忘れた。でもそのときの訳詩はいまも耳朶にこびりついている。詩誌「乱船」それとも「花*現代詩」所収であったか、探せば分ることながら、あたしはそれをしない。「邂逅」はいまのあたしのパヴェーゼ認識にほかならないのだから、「出会い」とはまた別のものなのだ。
詩は「邂逅」(続きの続き)―――

ときどき彼女と会う。すると彼女はぼくの面前で生きている
決定的に、不変に、一つの思い出みたいに。
ぼくは決して彼女を捉えられなかった。彼女の現実は
その都度ぼくの手をすり抜けて、ぼくを遠くへ運んでしまう。
彼女が美しいかどうか、ぼくは知らない。女たちの中ではとても若い。
彼女のことを想うと、こうした丘丘に過した幼年時代の
遠い昔の思い出がぼくを不意に襲う、
それほど非常に若いのだ。彼女は朝みたいだ。
あの遠い昔の
朝ごとの空という空を眸の中に仄めかす。
そして彼女は眸の中に不動の決意を秘めている。こうした丘丘の上に
夜明けの光とて決して有さなかった
最も澄んだ光を。


傘を持って歯医者に出かける。階段を降りると、雨はまだ降っていなかったが、意外にもこんな街中でゆきんこが一匹宙に舞う。何かを伝えたいかのように数秒間舞ってあたしの鼻先を離れない。彼女のメッセンジャーだ。彼女はこの雪虫に託してあたしに何を伝えたいのだろう? 少なくともいまこの瞬間、彼女があたしのことを想っていることは確かだ。明日、早朝、雨ならば彼女の声が聞える。晴れたとて、彼女の姿が見られるとは限らないが…… 夜九時を過ぎて散歩に出ると、雨が降っていた。この雨が明日早朝以降も現地で降り続けばよいのだが、明日の予報は朝晩雨、日中は曇り、とある。発掘は果たして中止か、悩ましいケースだ。
詩は「邂逅」(続きの続きのそのまた続き)―――

ぼくは彼女をおのれにとって最も大切なあらゆる事物の
深みから創りあげた、それなのに彼女を理解することができない。

22

朝方、浅い眠りの中で彼女の声が聞えるのを待っていた《……発掘は……中止……》でもその声はいつまで待っても届かず、窓の外では雨がザンザン降っていた。窓を閉めてガラス越しに伝わる微かな雨音に耳を澄ますうちにいつしかあたしは眠りの深みに堕ちこんでいった。
温めなお湯に浸かる。外はもう雨が上がっている……とうに発掘開始か?……ずる休み……姿勢を変えた途端、右足の甲に痛みが走る……卑怯者、他人の記憶までがあたしを襲う……あの時あたしは右踝を痛めて後方に取残されてしまった。みなは都電軌道の敷砂利を投石しながら、ロックアウト中の母校キャンパスに迫っていた。一時的後退の中、数人が前方に取残された。あの時あたしが彼の脇で木刀を振るってさえいたら、キクチ先輩がむざむざと機動隊に逮捕されることはなかったろうに!
《先輩、逃げて! ここはあたしが……》
……気がつけば湯舟で眠込んでいたあたし。散歩に出る。
詩は「風景Ⅱ」(一部)―――

土の露出したあの丘が星屑に白みゆく、
あの上では、盗人どもは丸見えだ。裾の崖に挟まれていては
どの畝もみな影の中だ。物生りのいいあの上
苦労知らずの土のあそこへは、誰も登らない。
湿った土のここへは、松露採りを口実に、
何人もがぶどう畑に入り込んではぶどうの実を荒してゆく。


発掘ずる休みを活かしてご無沙汰続きの皮膚科と骨継ぎに行こうか、それともこのまま翻訳を続けようか、思案する。
五才堂の若先生、なんか痩せちゃったなぁ、どうしたんだろう? 腰にテーピングされちゃったよ。
日が暮れるとまた雨が降ってきた。また、街角で一匹のゆきんこと出会ったよ。そのあと雨が降りだして、傘を差したけど、エリサは雨にけぶる舗道を歩くのはわりかし好きなんだ。足許の悪い公園を迂回する長い散歩が終ってデルからメール、
《今朝、雨ザンザンでずる休みしちゃったけど、リクパは出たの?出たんだったら様子教えて?》
《出たよ。休みの人、多かっけどネ。パスターマンも。そして半日で終わり。なかなかいい一日だったなぁ》
ふうーんだ。秘密の秘密そのまた秘密。夜、嬉しいことがあったんだ。これはずっと書かないよ、秘密だから。リクパにも。
詩は「風景Ⅱ」(続き)―――

うちの親父がぶどうの木の間に捨てられた二房を見つけて
今夜ぶつくさ言う。ぶどう畑はとうに不作なのに、おまけにこれだ。
昼も夜も湿気て、生えるのは葉っぱばかり。
ぶどうの木々の間から上空に剥き出しのあの土地が見える
あれが昼、親父から日光を盗むのだ。あの上では太陽が
一日中燃えて土は黒焦げだ。そんなことは真っ暗でも見て取れる。
あちらでは葉っぱは生えない、力はみなぶどうの実に集るのだ。


昨日は真夜中に嬉しいことの二つ目があったよ。これは公表しても一向に構わない。むしろ世界に向って吼えたいくらいだよ。リバウンド現象を警戒して、と言うかその結果を目の当たりにするのが怖くて、あたしはずっと体重を量らなかった。事実、深酒、チェーンスモーキングは相変らずそのままだけど、このところ妙に食が進むのだ。
深夜に温いお風呂で身体を伸ばしてタバコを三本吸って、こわごわ体重計に載ったら、スッゴーイ、なんと五キロも減量してたよ! あたしの縄文発掘ダイエット作戦は大成功。健康的に身体を引締め、精神的に幾分強くなり、社会や人間に対する洞察力もいささか増したのだから、そのうえ安いとはいえ時給七五〇円も貰えたのだから、言うこと無いね、怪我さえなければ。怠惰な都会人だけではなく、自殺志願者や虐め被害者にもお勧めのダイエット法だよ、これは!
だけどこの調子で痩せ続ければ、年末にはあたしはガリガリの骨と皮ばかりになってしまう。折角の胸と尻が凹んだら、あたしのプライドも凹んでしまいそう。だからこの月末に発掘を辞めるあたしの決断は正しかったのかも知れない。月末というけれど今日は二八日で昨夜来の小雨が降り続いていて「発掘は全面中止」で正味、明日、明後日の二日間しかないよ。後たった二日でみなとお別れなんて悲しいよ、げっそり瘠せてしまいそう。
詩は「風景Ⅱ」(続きの続き)―――

うちの親父は濡れた草むらの中で棍棒に凭れかかって、
利き腕を痙攣させている。もし今夜盗人どもが来たら、
畝の真ん中に跳びだして背骨をへし折ってくれる。
けものみたいな所業を働くやつらだから、
どうなろうと構うものか。ときどき頭を上げて
親父は空気を嗅ぐ。暗がりからつんと届いたように思うのだ
掘りだされた松露と土の匂いが入り混じって。


雨が止んだ。窓から見える公園の木々は疎らに、どころか今はもうすっかり紅葉している。当り前だ、あと三日でもう十二月、霜が降り木枯しが吹き荒んでいても不思議はないのだ、本来ならば。果たしてあたしは縄文遺跡発掘人からタクシー稼業に無事舞戻れるのだろうか、生来不器用なこのあたしが?
詩は「風景Ⅱ」(続きの続きのそのまた続き)―――

天へ向って伸びるあの丘の斜面では、
木々の日蔭は無い。ぶどうの実は地面を這いずっている、
それほどたわわに重いのだ。あそこでは誰も身を隠せない。
丘の頂に木々の斑点が黒ぐろと疎らにくっきりと
見える。もしあの丘の上にぶどう畑を持っていたなら、
うちの親父はベッドの上で、鉄砲を構えて、家に居ながらにして
見張ることだろう。ここ、谷底では、鉄砲さえも
親父の役には立たない。なぜなら暗闇の中には樹葉しかないのだから。

23

寝てしまった。お腹がくちくなると眠たくなる、極めて平和な生き物なのだ、あたしは。
もう、三時。午前三時でなくてよかったよ。折角の雨休みが眠っている間に消えてゆく。
詩は「真夏の月」(一部)―――

黄色い丘丘の向うに海はある、
雲たちの向うに。だが海の前には
天にザワザワ音立ててうねる丘丘の
身の毛もよだつ数日間が待構えている。こちらの丘の上には
オリーヴの木が立ち、影を映すにも足らぬ泉が傍らにある。
それから刈株畑、刈株畑、目路の限りの刈株畑。


ああ、あたしの心は波打ち、血を流してどんなあどけない微笑みにも和まない。人はこれを欲望と呼び、情熱と称するのだろうか?  ならばあたしはもう心など要らない、決して!
別れの日が迫っている。
詩は「真夏の月」(続き)―――

そして月が昇る。夫は畑の中に真っ直ぐに
伸びている、脳天を太陽に真っ二つに割られて
――花嫁なら死体を袋みたいに曳きずることは
できない――。月が昇り、捩れた枝枝の下に
ほんの少しの影を投げる。月影の女は
血まみれの大顔に恐怖のうすら笑いを浮べ
丘丘のどの襞にも血が溢れて固まる。
畑という畑に伸びた死体も
月影の女も動かない。それでも血まみれの片目が
誰かに目くばせして道を示しているかのように見える。


果たして人間とは学ぶものなのだろうか? 
この詩に初めて向き合ったあの頃のあたしと、いまのあたしと果たしてどれほどの違いがあろうか?さほど違いが無ければ、あたしは何も学ばず、少しも変らなかったということなのだろうか? パヴェーゼの詩篇はあたしにとって、まさにおのれの真の姿を映し出す鏡なのだ。あたしはいまや何の拠り所もない、文学を除いては、詩のほかには。
詩は「真夏の月」(続きの続き)―――

長い戦きが裸の丘丘をつたって遠くから
やって来る。すると女は背後にそれを感じる、
小麦畑の海を長い戦きが走るときにも似て。
月光のあの海にさ迷うオリーヴの枝枝をも
長い戦きが襲う。すると早やオリーヴの木の影が
収縮して彼女をも呑込もうとしているかのように見える。


《ヌーさん、あたしはもう孤独に耐え切れないよ、というか、一介の文学者たろうと志すなら、もっともっと精神的に孤独でなければならないと諦めているよ。でもね、きみの返信は欲しいんだよ。本来的には断る必要もないほど当然のことだけど、非公開を要する場合には「これは私信」と断ってね。通信の秘密厳守するからね。最近の掲示板見ている? 書込んで欲しい人は沢山いるんだけど、誰も書いては呉れない。呉レナイ派のエリサなんてぞっとするからあまり嘆かないようにしているけどね。小出しにしておかないといつか堰を切るかもとこれは単なる予防策。返信呉れたら、パヴェーゼ詩の最新訳、纏めて添付しようか? おやすみ》
詩は「真夏の月」(続きの続きのそのまた続き)―――

女は外へ真逆様に転げ落ちる、月光の戦慄の中へ、
すると微風の微かな音が小石の上に女の後を追って
薄いシルエットが彼女の足裏を咬み、
母胎に陣痛が兆す。女は背を丸めて木陰に戻り
砂利の上に身を投げて口を噛む。
女の身体の下で、黒ぐろと大地が血に濡れる。

24

「すみません、あたし今月一杯で……」
「ほう、喪が明けましたか?」
「はい、ハンドルに戻ることに……」
なんだ、中井副監督、あたしの免停明けのこと、知っていたんだ。気がつかなかったけど、笑うと人懐こい笑顔が零れる偉丈夫だよ、中井さんは! 自余の人びとが眼に入らなくなる、だから恋する女はだめなんだ。明日は休みと決まっている彼女なのに今日も休み。落胆この上なし。あたしの発掘は今日と明日限りだから、もう会えないということだ。やはりアポロン蝶は縄文埋没谷の空高く飛び立ってしまっていた。あたしの悲しみがあきる野の風に吹き散らされ、雲となって大岳山を越え、遠く西空に消えてゆく。昼なのにうっすらと上弦の月が笑っていたっけ。北の平井川河岸段丘の丘丘の漸くの紅葉が眼に滲む。手洟をかむ。ゆきんこが二匹寄って来るけど、ノーメッセージ。あたしもいつかゆきんこの一匹になって儚く消えてゆく……
詩は「異郷にある人びと」(一部)―――

海ばかり。ぼくらは海はたっぷりと見た。
夕方、海面が色あせて広がり
無の中に消え失せると、友は海面を見つめ
ぼくは友を見つめる。そして誰も話さない。


《ダツラ、エリサだよ! ダツラの大好きなインドの馨りをリクパに託したから、土曜日に胸一杯吸い込んで陶酔してね。そして醒めないうちにエリサにメール。みなで掲示板で総括してくれるんだってね。ダツラ、フナチャン、リクパ、カーテ、サオリ、楽しみに待ってるよ!》
《フナチャン、エリサだよ! 昼休みにでもサオリに掲示板書込みの仕方教えてやってね。
そして二人合作でもいいから即カキコしてね。待ってるよ》
《リクパ、美味しかったね。楽しかったし、エリサは幸せだよ》
《カーテ、エリサだよ! 怒ってないよね、エリサはそれが心配だよ》
《サオリ、みなと一緒に会おうね、約束だよ!》


土山盛りのあたしのネコの上にゆきんこが一匹飛んできて、沈む夕陽を浴びている。
「きっと?」
「きっと」
「必ず?」
「必ず」
いつしかあたしはゆきんこと会話を重ねていた。あたしの発掘最終日の今日、あっ、もう昨日か、あたしは二区西北端で朝からずっとスコップ、おかめや三角鋤簾を使って、人肌色に艶かしく耀く地山を出そうと苦闘していた。リクパのいたベルコン跡手前南東の一角でほぼ完形の縄文土器が出土したとも知らずに! あたしの発掘最終日に大発見、何という幸運! でもそれを知らないあたし、何という悲運! 早や、あたしが発掘参加者として間近に出土土器に接する機会は永遠に失われてしまった。明日、いやもう今日か、ふらりと桜木を訪れて土器を覘いたところで、それは部外者、せいぜい新米OBの所業であって、発掘当事者の熱い眼差しは失われている。あたしがこの二ヶ月間、身体メリメリ必死に土を掘り続けたのは、縄文土器をこの手で発掘する、あるいはせめて仲間としてその瞬間に立会うためではなかったのか?
「なぜ教えてくれなかったの?……」
あたしは言葉を半ば呑込んだ。いや、そんな問い自体、発する筈もないいつものあたしだった。リクパはあたしが知らないとは思いもよらなかったのだろう。旨いと思ったマハラジャが瞬間、酷く気の抜けたビールの味がした。還って来ない事って、人生にはよくあるよね。これもその一つ。あたしの心臓に射ち込まれたもう一本の錆びた鏃の折れ矢に過ぎない。還って来ない事はとうに飛び立ってしまったアポロン蝶も同じか? あたしはなぜ生きているのだろう? ゆきんこが「きっと」と言った。ただそれだけ。


小春日和というもばからしい上天気に誘われて、あたしは痛む右踝を庇ってブーツを履いて散歩に出た。歩きながらインドの馨りの封を切り、少し立止まってジッポで〈かおり〉に火を点ける。かおりがあたしの肺を満たす。かおりがあたしの血液に溶け入ってあたしの体中を駆け巡る。かおりが煙となってあたしの鼻孔から天高く逃出してゆく。歩きながらかおりを吸うとクラクラする。雨でもないのに頬が濡れる。
泉塚の交差点から五小前に回りこむ。強化プラスチックボード越しに遺跡を覗き込む。一面ブルーシートが張ってあって、長いベルコンの列に動きはない。ユンボの前の地面にメット姿三人しかいない。怪しげに鋤簾を使っている。まだ小休止中なのかも知れないが訝しい事だ。ま、遺跡は逃げない。また見てやろう。ふと、かおりに飽いてハイライトをふかす、移り気なあたしだ。生来飽きっぽいのだ、あたしは。悲しみさえもあまり続けば飽いてくる。ほんとによい天気だ。風さえない。あたしの鼻から出たかおりの煙が青空に白い輪を作る。


ん?タンパって何だろう?折角イタリアへ行ってもあたしはタンパに入らないから、タンパって何だか分らない。何年経ってもあたしはちっとも変っていない。今度行ったときまでの宿題にしておこう。でも昨日までのあたしのつもりで、ごろ寝して転寝したら何だか頭の芯が痛い、風邪を引いたかな?それともただの二日酔い?まだ昨日までなら昼休みの最後の一〇分間、駐車場隅の土嚢枕にあきる野の風に吹かれながら昼寝しても気分爽快だったのに!エンジン音と振動に眼が覚めて跳び起きたら、ハンドル握ってギョッと眼を剥いている立山さんと眼があったなんて危険はあったけれど、踵をタイヤに預けて寝ていたあたしのほうこそ、ギョッとすべきではあったけど。それでも眼鏡を落したのに気がつかないほど、あたしも慌ててはいた。そそくさと現場テントに向って、仕事を始めて一〇分ほどして、眼鏡の無いことに気がついたっけ。いまではみな懐かしい……
詩は「異郷にある人びと」(続き)―――

夜の間ぼくらは結局タンパの奥に閉じこもり、
紫煙に隔てられて、飲み交わすことになる。友には夢がある
(潮騒に合せて紡ぐどの夢もいささか単調だ)
夢の中、海面は鏡にほかならず、点在する島々の
丘丘は、野生の花々と滝に彩られている。


やっと見つけた。あの頃ぼくが訳した初めてのパヴェーゼ詩はこの一篇だったのだ、たぶん。あの頃もぼくはおのれの力では到底制御しえない感情の嵐に見舞われていた。人を殺してしまわないために、おのれを殺さなくても済むように、さ迷い歩いた挙句にパヴェーゼと出会ったのだった。
詩は「異郷にある人びと」(続きの続き)―――

彼の酒はこうだ。じっと眼を凝らし、グラスを見つめながら、
海原の上に緑の丘丘を擡げさせようとする。
丘丘がぼくの性には合う。だから彼が海のことを話すがままにさせる
なぜなら彼の海はとても澄んでいて、底の小石たちまで見え見えだから。


今日も晴天、抜けるような青空、発掘にもうあきる野に行けない苦しみ。あたしは公園のベンチで暖かい陽射しを浴びながら、縄文谷の仲間たちのことを想う。今頃ダツラはリクパからインドの馨りを受取り、薄目を閉じて肺一杯に煙を吸い込んでいるだろうか? それとも「これ、エリサからの贈物だけど」とか言って、立山さんにも一本勧めて、二人して旨そうに燻らしているだろうか? あたしもそこにいれば今頃、現場テント前のいつもの場所で、尻と背中を陽射しに温められながら、身体中から砂みたいに抜け落ちる疲労感を愉しみながら、かおりを吸っていた筈だ、眼は大岳山にかかる薄雲から離さずに。そんな遠くの西空をいくら眼で追っても、飛び去ってしまったウスバシロチョウの群れを、あたしのアポロン蝶の舞いを見ることはもう叶う筈もないのに!
詩は「異郷にある人びと」(続きの続きのそのまた続き)―――

ぼくは丘丘だけをみる、すると空と大地が
遠く近く、丘丘の中腹のくっきりとした輪郭でぼくに満たされる。
ただ、ぼくの丘丘はざらざらした土で、焼けた地面に汗水垂らした
ぶどう畑の縞模様がどこまでも続く。友はそれを受け入れ
野生の花々と果物で丘丘を装わせようとする
笑いながら丘丘に果物よりも裸の少女たちを見出すために。


今日の抜けるような青空よりももっと青いチェレステ・ブルの手編みのセーター、ゆかがあたしのために密かに編んでくれたこのセーターを着て、小さな愛に包まれて、あたしだってささやかな幸せに浸るひと時があるんだよ。叶わぬ恋にさめざめと泣くばかりがあたしの本領じゃない、いくら歌詠みの卵でもね。
詩は「異郷にある人びと」(続きの続きのそのまた続きの続き)―――

そんな必要はない。ぼくの最もざらつく夢の中にも微笑みは欠けていない。
もしも明日の朝早くぼくらがあの丘丘目ざして
歩いてゆくならば、ぶどう畑の中でぼくらは出会うことだろう
陽に黒く焼けた、肌の浅黒い少女たちに、
そして話しかけて、彼女たちのぶどうの実をほんの少し食べることだろう。


目庇をぐるりと回し仰ぎ見る師走の月よ早や満つるかも  エリサ

二箇月余りの肉体労働で逞しくなったあたしの足腰。だけど、準備運動はおろか、疲労に負けて不可欠な整理運動さえしなかったから不均等に強張りっぱなしの筋肉たち。始業前、現場テント脇でリクパの動きを眼で追って真似たヨーガ体操の切れ端だけの毎日。また一キロ減っていたあたしの体重。一日何度かの腹筋三〇回、腕立て伏せ三〇回で補ってやることにする。真っ向法もリバイバルさせなくっちゃ。真夜中の散歩だけではまた運動不足になることは目に見えているもの。

25

最愛の夫を亡くした遥かな友へ
最愛の夫を亡くした貴女なのに、あの頃あたしは迂闊にもそのことを知らず、愛に盲いた獣みたいにひたすらおのれの閉じ切らぬ傷口を舐めていた。逢うたびに愛する哀しみが募るばかりで訣れて、それは果たして何年後の出来事であったのか? 最早逢うことのできぬ貴女に慰めの言葉一つ掛けられぬあたしは知らなくて……ただ済まない……いまは遠いあの訣れの朝に貴女に贈った訳詩ユー、ウィンドヴマーチ! 
いまは貴女のアドも分らずに、この新たな訳が貴女の目に触れるべくもないけれど、それでもあたしは貴女にこの新訳を贈ります。貴女とあたし、しっとりとどこまでも素晴しく切なかったあたしたちの愛の形見に、青春に。そして育たなかったあたしたちの愛の欠片に……
詩は「きみ、三月の風よ」(一部)―――

きみは生命、そして死だ。
きみは三月に
裸の大地にやって来た――
きみの戦きはいまも続く。
春の血潮よ
――アネモネか、雲か――
きみの軽やかな一歩が
大地を犯したのだ。
苦しみがまた始まる。


人生がやり直しの利くものならば、あたしはまたいまの連れ合いと一緒にいるだろう。そしてあなたはあなたの最愛の夫といることだろう。そして苦しみがまた始まる。けれどもその苦しみの甘美さよ。短かったあたしたちの愛の季節。でも美しさのすべてがそこにはあった、苦しみと共に。
詩は「きみ、三月の風よ」(続き)―――

きみの軽やかな一歩が
苦しみをまた開いた。
貧しい空の下
大地は冷たく、
冬眠中の夢の中に
不動で閉ざされていた
もう二度と苦しまぬ者にも似て。
厳寒さえも甘美だった
深みにある心臓の中では。
生命と死の間で
希望は黙していたのだ。


ああ、あたしは還りたい、貴女のやさしい肌の下へ。すべての夢を育む馨しい貴女の肌の温もりの中へ。貴女は美そのものだ、あたしはずっとそこに潜り込んでいたい。
ああ、還しておくれ、貴女があたしに逢いたく、あたしが貴女に逢いたかったのに、それでも逢えなかった辛いあの頃の日々を、青春の最後の輝きを……
詩は「きみ、三月の風よ」(続きの続き)―――

いまは生きとし生けるものが
声と血潮を持っている。
いまは大地と空は
強く戦き、
希望が天地を捩り、
天地を朝がひっくり返し、
天地をきみの一歩が、
きみの黎明の吐息が沈める。
春の血潮よ、
全大地が太古の
おののきに震える。


あたしはいま一体何をしているのだ? 永らく封印してきた哀しみが一挙に噴出して来る。愛する人を幸せにできぬほどの哀しみがこの世にあろうか? あたしは頑張った、でももっともっと貴女に訴えて欲しかった、岩をも山をも動かせぬものか、と。
詩は「きみ、三月の風よ」(続きの続きのそのまた続き)―――

きみは苦しみをまた開いた。
きみは生命、そして死だ。
裸の大地の上を
ツバメか雲にも似て
きみは軽やかに通りこし、
すると心臓の奔流が
また甦って堰を切って流れこみ
空に影を映して
また事物の影を映しだす――
そして事物は、空と心臓の中で
苦しみ身を捩る
きみを待ちながら。
それは朝だ、黎明だ、
春の血潮よ、
きみは大地を犯したのだ。


貴女はあたしの思考の夜空に一際強く妖しく耀く星シリウスにも似て、闇のすべてを支配する。あたしは貴女への愛にすべてを投出し切ってはいなかったのか、現にあたしはいまも生きているし? でもこれが、……果たしていまのあたしが生きていると言えるだろうか?
詩は「きみ、三月の風よ」(続きの続きのそのまた続きの続き)―――

希望が身を捩り、
きみを待ってきみを呼ぶ。
きみは生命、そして死だ。
きみの一歩は軽やかだ。


やはりあたしにとって本物のアポロン蝶は貴女だったのだろうか? ならば貴女はいまも確実にあたしの胸の奥で楽しげに羽ばたいている。縄文谷であたしが発掘の日々見たのは貴女の幻影の少女に他ならなかったのだろうか? あの少女=アポロン蝶は疾うに縄文谷から西空高く翔び去ってしまった。あたしは幻影を追わず、胸の奥の片隅に貴女=アポロン蝶の羽ばたきをしかと覚えながら、ハンドルを握る日々に舞い戻ればよいのだろうか?

26

喪明け、朝一で府中、免許証取返し、会社、
「ただいま復活しました!」
一件書類を書いて貰い、再登録に必要な住民票を取りにとんぼ返り。それからやっと南砂くんだりのタクシーセンターに提出、写真撮られて金ふんだくられて乗務員証を受取り、また会社へ。東京の西の端から東の端まで往ったり来たり、漸く出番は明後日からと決まったよ。
縄文谷のみなからは全く何の音沙汰もない。つれない仲間だよなぁ、あたしがこんなに心を残しているのに! ダツラ、フナちゃん、リクパ、さくら先輩、サオリ!
今夜はほんとうの満月。公園の黒ぐろとした高い樹木の梢の先から顔を覗かせている浩浩たる月にあたしは呼びかける。
「お月さん、あたしのほんとうの恋人はあんただよ!」
「あんたは誰だい?」
「あたし? あたしはいつも振られてばかりのへっぽこ歌詠みの卵エリサだよ……」


《また鷹が螺旋を描いて舞い降りた。北方から出撃し帰還しているようである。私たちのキャンプサイトから望むあの丘陵である。 ……エリサ、ダイジョウブダヨ。皆、貴女のことは忘れていない。縄文谷はそろそろ終息に近づいている。そして私たちはさらに西進し次の獲物を探すのだ、大地が続く限り》
嬉しい。ダツラの消息。散歩から帰ってデル開けて初めて気がついたよ。知ってたら、移植されたてで覇気のない葉っぱの榎にしがみついて人知れず泣いてたところだよ、このあたしは。正午前に目が覚めて、シャワーは省いて散歩に出た。段丘緑地取っ掛りの店に入って、三枚葱叉焼麺を頼んだ。
「おっ、学生さんかい?」
との声に振向くと可愛い男の子が入ってきた。学割が利くんだ、この店。
《あたしだったらとても料金取れないね、こんな可愛い学生さんから》
と、ビール啜りながらあたしは思う。孤独な自分に赦したちょっとばかりの贅沢。発掘開始以来初めて訪れた黒川湧水は落ち葉だらけ。紅葉に見惚れていると、足許が危ない。淺川を見下ろすベンチを見つけて〈かおり〉を燻らす。思わぬ場面で意外と剽軽な面も見せていつも男らしいダツラ、彼の下でずっと働きたかった…… 湧水に降りる小径で見つけて名も知らぬ花のかおりをそっと嗅ぐ。池の亭でタバコをふかす、空虚なあたし。


黒川段丘と水道局の間の遺跡発掘現場をプラパネ越しに覗く。大勢いる。みなスコップから箕に土を入れている。経験の浅いあたしから見てもいかにも素人臭い動作ばかりだ。何よりもダツラや中井さんみたいに常に現場に目を光らせてそれとなく指揮を執る人間がいない。立山さんみたいにみなに率先してカパカパ掘る無法松がいない。甲斐さんみたいに「面倒するのが遺跡調査だよ」と言ってくれる大先輩がいない。山盛りのネコをとっとと奔って運び、重い合パネを独りで背負い、掛け矢の一振りで杭を土中にめり込ませる鈴木さん、斉藤さん、佐々木さんの怪力少女三人組がいない。内気なのに一度だけ話しかけてくれたソプラノ歌手のマッちゃんがいない。あたしは諦めて泉塚五小前の遺跡に移った。ここでもプラパネ越しに覗くと、僅か数人が庭掃除をしているみたいに鋤簾を使っていた。これらに比べれば、あたしのいた縄文谷発掘隊はあたしたち新人数名を抱えていたとはいえ、他の遺跡に派遣しているベテランも結集すればそれこそ発掘の最精強軍団だったのだ。身体メリメリの原因も今にしてこそ分る。そうして帰ってみれば、もう諦めかけていたダツラからの音信が届いていたのだった。


今日も満月、いや今日こそ満満月。折角の月影なのになお足許の暗い夜道を急ぎながら、目庇をぐるりと回して野球帽を後前に被り、立続けにふかす紫煙の中から仰ぎ見る月に向って、吾知らずあたしは呼びかけていた、
「お月さん、あたしの男から便りがあったよ!」
「ほうお?」
「あたしも一端の女だったんだね?」
「ふむ」
「あたしは明日は出番で朝から朝まで仕事だから、縄文谷のみなを宜しくね」
「さて?」
「プレハブ脇の鉄板駐車場に霜降らせたら承知しないよ!」
「おやおや!」
「明日は五時半起きだよ、あたしもう寝なくっちゃ。おやすみ」
「おやすみ」


《……そして私たちはさらに西進し、次の獲物を探すのだ。大地が続く限り》
そう、あたしはいつかきっとダツラの部隊に再合流する、次の獲物を探しに。おのれの生きる糧ぐらい女ひとりで稼がねばならないから、人生の流れに押し流されて、いくら淀みに滞ろうとも。いつか必ず、きっと! おやすみ


ほぼ二ヵ月振りの初出番の朝、階段に出ると青い闇の中、真っ正面に大きな薄黄色い満月の顔がニカッと笑った。
「大丈夫」
「大丈夫? 縄門谷のみなは?」
「今朝はあそこには霜など降らせなかったからな」
「ありがと。あたし、急がなくっちゃ」
二ヵ月振りにハンドルを握る。運転は身体が覚えていてくれた。ただパワステがいかれてハンドルがやけに重い。ラジオがお釈迦で朝のバロックが聴けないのが痛い。営業車に乗り換えて吉祥寺方面に流す途中で早速無線に捕まった。立続けに「迎車」二本。悪くはないが調子が狂う。昼間近やっと晴海に出て弁当食べて仮眠。眠れない〈かおり〉を吸う。
夕刻、六本木からヒルズに回る。欅坂のイルミネーション、青と水色、樹氷をイメージした寒色系の照明が初めて見た時には酷く印象に残ったのに、遠く並木の間に臨む暖色系の東京タワーを加えても、綺麗とも感じられない。青山通りも表参道も少しも魅力を感じない。原宿を抜けてFMから流れたジョージ・ウィンストンの澄んだピアノに心が揺れる。
《曲名も知らずに好きだったこの曲のタイトルが「愛と憧れ」だなんて!》
深夜の新宿は酔っ払いを漁るのも三時前に切上げて四時帰庫納金洗車、七時帰宅。風呂入って一杯飲みながら飯喰って九時前には就寝。
目が覚めたら三時半。外は寒そう。
《寒空の下、小休止中の縄文谷のみなに一個ずつゆきわたるよう、熱々の手作りコロッケを差し入れしようと思っていたのに!》

27

ショパンばかりを聴いてます。慰めようもない心を慰めようともせず、いまは何も想わずに、ただ透明なピアノの澄んだ音色に身を委せています。
インザモーニン、ユーオールウィズカムバック
詩は「朝きみはいつも戻ってくる」(一部)―――

夜明けの隙間が
きみの口から洩れる
虚ろな街の奥で。


ああ、他人の人生を生きられたなら! そして貴女の身に自分を置けたなら。あたしはいま何を想っていることだろう?
インザモーニン、ユーオールウィズカムバック
詩は「朝きみはいつも戻ってくる」(続き)―――

きみの眸の灰色の光、
黒ぐろとした丘丘の上の
夜明けの甘い露よ。


あたしには時間が足りない。明日も出番、もう寝なくては! あと一時間あったなら!
インザモーニン、ユーオールウィズカムバック
詩は「朝きみはいつも戻ってくる」(続きの続き)―――

きみの一歩ときみの吐息が
夜明けの風にも似て
家家を沈める。


インザモーニン、ユーオールウィズカムバック――これはぼくが眠りに落ちるときいつも呟く言葉。朝方の夢の中できみと出会える幸せを願って……
詩は「朝きみはいつも戻ってくる」(続きの続きのそのまた続き)―――

町は身震いし、
敷石が臭う――
きみは生命、目ざめだ。


ステアリングの調子が悪いのは一日転がしたらほぼ直ったと思ったら、またハンドルが重い。パンクほどではないから、右前輪の空気圧が低すぎるのかも知れない。乗る前にチラッと見たらタイヤ下部が妙に拉げて、いかにもへたった感じだったけど。FMが死んでいると、忘れていた筈の情動が運転中のあたしの思考と肉体を次々に襲う。きつく掴まれた感触が右手首にまざまざと甦る。汗に塗れた漆黒の美しい肢体があたしの身体の上で妖しく揺れる……インザモーニン、ユーオールウィズカムバック……
詩は「朝きみはいつも戻ってくる」(続きの続きのそのまた続きの続き)―――

夜明けの光の中に
さ迷う星よ、
そよ風の軋る音、
肌のぬくもり、吐息よ――
夜は終った。


「オー、アイシャ! アイヴニヴァーフォーゴトンユー! オー、アイシャ、アイシャ! インザモーニン、ユーオールウィズカムバック[インマイスキン]……オー、アイシャ、アイシャ、アイシャ!」
聡明で可愛らしい漆黒の美女アイシャはいまもシンガポール辺りで小さな子供たちに囲まれて一緒に遊んだり、楽しげに世話をしているのであろうか? それとももうフィラデルフィアに帰っているのだろうか?
詩は「朝きみはいつも戻ってくる」(最後の一行)―――

きみは光、そして朝だ。

28

アケの朝は小雨に煙っていた。昼過ぎに目が覚めて散歩に出ると、冷たい雨が降っていた。雨に濡れながら暖を摂りに〈かおり〉を燻らす。無の悲しみ。今日は発掘も休みだろう。『人はなぜ戦うのか』(松木武彦)考古学から見た戦争――客待ちの間に読むには惜しいなかなかの好著だ、ヌーボーとした著者近影と共に。昨日は営収六万五千、付待ちをしないで流せば今の時期そこそこの稼ぎはある。しかし本を読めないのは痛い。明日日曜も出番。おやすみ
詩は「土と死・赤い土、黒い土」(一部)―――

赤い土、黒い土、
きみは海からやって来た、
焼けた緑の原から、
そこにあるのは太古の
言葉と血のしたたる労苦と
砂利の間にゼラニウムと――


三日続きの出番であたしも漸く女タクシードライバーらしくなってきた。日曜日の都心は車も少なく飛ばすのは快適だ。
《口煩いだけの湿気た客はお断り》
別にそう貼り紙してるわけではないけれど、飛ばすあたしの横顔にちゃんとそう画いてある。丸の内署は白バイも最低、赤坂、麻布署のパトと競るね。新宿署のストーカー白バイは論外だけどね。やっと復活したあたし、今度は一発免停、免許取消だ。気をつけねば。 だけど八百屋お七の気持も分らなくはないね。
《火事になればあの人に逢える、あたしも免停・取消になれば発掘でダツラに逢える……》
詩は「土と死・赤い土、黒い土」(続き)―――

きみは知らない、どれほどの言葉と
労苦をきみが海から持ってきたかを、
きみは思い出にも似て、
裸の野にも似て豊かだ、


咳が出る、喉が痛い、朝飯のあと、残っていた二錠の風邪薬を飲みまた寝る。薄目を開けると外がほの暗い、折角の公休がもう夕方では堪らない。うとうとと惹き込まれそうな眠りから吾を引き剥がし、やっと起きて風呂に浸かる。散歩に出てタバコを吸い、仕事場に着いてコーヒーを啜る。
詩は「土と死・赤い土、黒い土」(続きの続き)―――

きみは固くこの上なく甘美だ
言葉よ、太古から幾世代の血を経て
眸に凝縮している。
若い女よ、果物にも似て
思い出と季節そのものだ――


どんよりとした空の薄寒い一日。自殺したパヴェーゼの詩と向きあう。いまはもう遠い縄文谷の日々よりも、詩人の孤独な詩句のほうが遥かに吾が身に近しい。
詩は「土と死・赤い土、黒い土」(続きの続きのそのまた続き)―――

きみの吐息が真夏の
空の下に憩う、
きみの眼差しのオリーヴ
の実が海を甘くする、
そしてきみは生き、また生きる
唖然とすることなく、土にも似て
確信して、土にも似て
黒ぐろと、数多の季節と
夢の油搾り機よ
月影にこの上なく太古の
姿を晒している、
きみの母親の両手、
火鉢の窪みにも似て。


あたしは遺書など書かない。見るがいい、あたしの生きざまが遺書そのものだ。何年にも亘って死のその日まで書き続ける遺書としてのあたしの人生。死を決意したその日は果たしていつのことであったのか、あのころの一日であったことは確かだ。その日からは遺書を書き続ける日々だけがあった、あたしの人生!
詩は「土と死・きみは土みたいだ」―――

きみは土みたいだ
誰も決して言わないが。
きみは何も待ってはいない
枝枝の間の果実みたいに
深みから迸り出る
言葉のほかには。
きみに届く一陣の風がある。
乾いたよれよれの事物が
きみの場所を塞ぎ、風に散ってゆく。
四肢と太古の言葉たちよ。
きみは真夏に震えている。


あたしの翻訳のスピードは速まり、地の文が追いつかない――残された時間があと僅かなのを知っているからだ。
詩は「土と死・きみもまた丘だ」(一部)―――

きみもまた丘だ
そして砂利の小径
そして葦原の中の戯れだ、
そしてきみは知っている
夜中に黙するぶどう畑を。
きみは言葉を言わない。


あたしは風邪薬と黒壱のお湯割を飲むだろう――だけど、あたしが必要とするクスリはそれではないことをあたしは知っている。
詩は「土と死・きみもまた丘だ」(続き)―――

黙する土がある
そしてそれはきみの土ではない。
草木と丘の上に
続く沈黙がある。
水の流れと田舎がある。
君は譲ることのない
閉じた沈黙だ、きみは唇
そして真っ暗な眸だ。きみこそぶどう畑だ。


あたしはもう何を書けばよいのか分らない。あたしにいま必要なのは書くことではない。あたしにいま必要なのはたった一つの行動、たった一つの動作だけなのだ。
詩は「土と死・きみもまた丘だ」(続きの続き)―――

それは待っている土だ
そして言葉を言わない。
焼けつくような空の下
日々が過ぎ去った。
きみは雲たちに戯れた。
それは悪い土だ――
きみの額がそのことを知っている。
それもまたぶどう畑なのだと。



あと残された時間は僅かだ。思えば長くて短かった歳月。〈かおり〉を燻らす。
さよなら
詩は「土と死・きみもまた丘だ」(続きの続きのそのまた続き)―――

きみはまた見つけるだろう、雲たちと
葦原と、声声とを
月影にも似て。
きみはまた見つけるだろう、言葉たちを
短い生命と戯れの
ノクターンの彼方に、
燃える幼年時代の彼方に。
黙することは甘美だろう。
きみは土、そしてぶどう畑だ。
燃える沈黙が
田舎を焼きつくすことだろう
夕暮れのかがり火にも似て。

29

とはいえあたしは睡眠薬なんて呑まなかったよ、そんなことしたって苦しいだけだし、果たすべきことのある人間の採るべき手立てでもないし。あたしはもっと息長くパヴェーゼと向い合うべきなのだ。少なくとも自ら封印してきた長い歳月と同じくらいに長くは。つまりはいまは遠く敬愛する先生の死後もということだ。恩師の学業を継ぐ者はいかに浅学菲才、あぶれ者とはいえこのあたしを措いて他にいないのだから。このあたしが学業半ばに斃れれば、師の衣鉢を継ぐ者は皆無ということなのだから。安心おし、貴女の愛を得られなくても、あたしは自ら死んだりはしない。おやすみ
詩は「土と死・きみは知るまい丘丘を」―――

きみは知るまい丘丘を
そこに血が撒き散らされたのだ。
ぼくらは誰もかもが逃げた
ぼくらは誰もかもが武器と
名を捨てた。一人の女が
逃げるぼくらを眺めていた。
ぼくらの中でたった一人の男だけが
拳を握りしめて立止まり、
虚ろな空を見、
顎を引いて黙って
銃殺の壁の下に死んだ。
いまは血に塗れた一片の布切れと
彼の名前だけが残っている。一人の女が
丘丘の上でぼくらを待っている。


氷河が溶けるとき、轟音を発し、その音は天に轟き、地を揺るがす。あたしは冷凍庫に入れ忘れたボトルを浴室に持ち込み、その実験をする。プシューッ、風呂を上がる頃になって漸く凍った口から水が噴き出す。あたしの渇いた喉を潤すにも足らない水。でも、その何百万倍、何億倍となれば、壮大な景色だ。途轍もない音響だろう。そのときあたしは雷を落とすゼウスにも、諸神を脅かすへーラーにも似るか? 血といい、知という、結局あたしも水にほかならない。
詩は「土と死・きみは彫られた石の顔」(一部)―――

きみは彫られた石の顔、
固い土の血よ、
きみは海からやってきた。


愛車のステアリングが旧に復するのが先か、右手首の痛みが深刻化するのが先か、またも埒もない意地を張るあたし。
《オー、アイシャ、アイシャ、アイシャ! ハヴントアイエヴァワンダードザポッサビリティオヴアヌーライフウィズユー?》
世界中どこへ行こうとも、おのれの肉体という牢獄から抜け出せないあたし。生活という生計維持のための努力は、所詮この牢獄を存続させるだけに過ぎないのだろうか? けれどもこの牢獄は、あたしの肉体は生命漲るとき、あらゆる不可能事を認めなかった。万人を敵として吾往かん……若かったあたし、いつまでも肉体思考のあたし。風邪を引き黒壱に酩酊し、ちょうどよい思考速度を感じるあたし。地上に引止めるこの牢獄としてのあたしの肉体がなければ、あたしの思考はとっくに宇宙の果てまで飛翔している。
詩は「土と死・きみは彫られた石の顔」(続き)―――

あらゆる事物がきみによって受入れられ
仔細に探られ撥ねつけられる
まるで海みたいに。きみの心の中には
沈黙、呑込んだ言葉たち
だけがある。きみは真っ暗闇だ。
きみにとって夜明けは沈黙にほかならない。


冷たい雨が降り続いている。
《彼女が私の便りを待ち焦がれている事は知っている。だが、私は出さない。そんな事をすれば、彼女の心は忽ち喜びに酔い痴れて、詩神から遠ざかってしまうだけ……彼女は絶望に打ち拉がれて、孤独の窮みで詩神の懐に抱かれるがよいのだ》
ああ、そんなことってないよね! 貴方を求めていまは開きっ放しのあたしの熱い心でさえ、やがては冷えて固く閉じ、厚い殻に覆われて、冷たい永久凍土の底深くまた眠りに就いてしまうものを!
詩は「土と死・きみは彫られた石の顔」(続きの続き)―――

そしてきみは土の声声
みたいだ――井戸の中へ
落ちた釣瓶の立てる水音、
炎の歌、
林檎の落ちる鈍い音。
敷居ぎわで沈む
諦めの言葉たち、
赤ん坊の泣声――物事は
決して通り過ぎない。
きみは変らない。きみは真っ暗闇だ。


《無事是名馬》あと一点で免停・免許取消とあれば、如何なじゃじゃ馬エリサでも名馬の一頭たらざるを得ない。ん?一三〇キロ?気づいたときにはすぐスピードダウンして走行車線に戻ったよ。客を他県で落して久し振りに高速を空車で蜻蛉返りが気分好かったのと若干下り坂の所為か、危ない危ない。白バイ・パト・覆面は付いてないよな? 帰ったらタコメーターの振り切れを当直にどう説明するんだ? 一〇〇以下に落して名馬エリサは闇を切裂きながら一服する。
都内から神奈川・千葉・埼玉に飛んで七万七千七百円余稼ぎ、川口からは「回送」で夜明け前の闇の中、外環をぶっ飛ばして帰庫した。相番が朝早いのだ。月八出番エイトウマンになってからは車と相番は日替りだ。飽きが来なくてよい。
詩は「土と死・きみは彫られた石の顔」(続きの続きのそのまた続き)―――

きみは閉じた酒倉だ、
土を踏み固めた土間に、
昔入り込んだ
幼い少年は裸足だった、
そしていつもそのことを思い返す。


あたしの右手首に痛みにも似た思い出だけを残して、漆黒の美女アイシャはメキシコ高原テオティワカンの空に翔び立ってしまった。彼女もまた一頭のアポロン蝶だったのかも知れない。月のピラミッドに憩って春には生まれ故郷フィラデルフィアに舞戻るのだろうか、あたしのアイシャは?
愛車を点検に出そうか?「法定」だから、出さざるを得ない。ステアリングが旧に復し、ラジオが復活するなら、無視できない選択肢の一つではある、この歳の瀬金欠エリサにも。明日は公休、風邪が治れば言うこと無いのだけれど……バーボンが効くかも。やっぱし、コルトレーンは最高!
詩は「土と死・きみは彫られた石の顔」(続きの続きのそのまた続きの続き)―――

きみは真っ暗な部屋だ
いつもそのことを思い返す、
古代の中庭にも似て
そこに夜明けが咲いたのだ。


《そこに夜明けが咲いたのだ》ああ、この詩行のあとにこそ、先日の一篇の詩「きみは知るまい丘丘を」が来るのだ。再掲―――

きみは知るまい丘丘を
そこに血が撒き散らされたのだ。
ぼくらは誰もかもが逃げた
ぼくらは誰もかもが武器と
名を捨てた。一人の女が
逃げるぼくらを眺めていた。
ぼくらの中でたった一人の男だけが
拳を握りしめて踏み止まり、
虚ろな空を見、
顎を引いて黙って
銃殺の壁の下に死んだ。
いまは血に塗れた一片の布切れと
彼の名前だけが残っている。一人の女が
丘丘の上でぼくらを待っている。

30

《ごめん、きみがぼくに惹かれているのは分っていた。だけどああするしかなかったんだ、ふたりの愛を育てないためには! 返事は要らない。さよなら》
詩は「土と死・塩と土の匂いがする」(一部)―――

塩と土の匂いがする
きみの眼差し。ある日
きみは海を搾った。
きみの傍らには草木が
あった、暖かくて、
まだきみの匂いがする。
竜舌蘭と夾竹桃。
何もかもきみは眸に閉じ込めている。
塩と土の匂いがする
きみの静脈、きみの吐息よ。


どんよりとした曇り空がいつの間にか晴れてきた。風もないし、寒くはない。少し歩けばフードも要らないくらい温かくなる。逢いたいけれど、誰にも会おうとは思わない。電話も掛けない、手紙も書かない。自足するあたし。だって空には晴れ間にじっとあの雲たちがあるのだもの。
詩は「土と死・塩と土の匂いがする」(続き)―――

熱風の涎よ、
土用の木陰よ――
何もかもきみはきみの中に閉じ込めている。
きみは田舎の嗄れ
声、隠れた
鶉の鳴き声、
小石の温もりだ。
田舎は労苦、
田舎は苦しみだ。
夜の訪れとともに百姓の
勲は黙する。
きみこそ大いなる労苦、
そして満腹させる夜だ。


読書の時間を作らねば、図書館に返すべき縄文本がまだ十数冊も溜っている。タクシーの客待ちの間だけではやはり読み切れない。歳末だから忙しいのは当然だけど。棚から引き出し、机に積まれたままの原書数冊。読み始めればすべてを押し退けてしまうことだろう。ふと空を見上げると、あれほどびっしりいた雲たちがもういない。晴れ渡っている、部屋にいる場合か?
詩は「土と死・塩と土の匂いがする」(続きの続き)―――

岩と草にも似て、
土みたいに、きみは閉じている。
きみは海みたいにぶち当たる。
きみを所有するか
止められるような
言葉は無い。土が
衝突して生命を成すように
愛撫する吐息よ、
沈黙を掴め。
きみは暗礁の果実にも似て、
海みたいに焼けている、
そしてきみは言葉を言わない
だから誰もきみに話しかけない。
  

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